第46話:『奪われた一分』
夜明け前、ジャンク屋の工房には眠気よりも冷たい緊張が漂っていた。
作業台の上には、アレンの手によって十数個の脈絡のない品々が整然と並べられている。
数個の安物の懐中時計、中の砂が半分ほど溜まった砂時計、真鍮の振り子、ゼンマイ式の小さなオルゴール。さらには、蓋の開いたインク瓶、滑らかなガラス板、細い蝋燭、外されたネジ、そしていくつかの真鍮球。
寝台から降りてきたエレノアが、その異様な光景に目を瞬かせ、そっと尋ねた。
「……アレン、何をするの?」
「罠だ」
アレンは拡大鏡を覗いたまま、短く、硬い声で答えた。
彼はピンセットと極小の固定具を使い、並べた品々に細工を施していく。それは職人の精密さをもって仕込まれる、**“一分間があれば、絶対に起こるはずの変化”**だった。
細い蝋燭は、あえて今にも倒れそうな絶妙な角度で燭台に固定される。
インク瓶の口からは、ガラス板の傾斜に向けて、一滴ずつインクが滴り落ちるように調整される。
オルゴールのゼンマイは、ちょうど一分間だけ曲を奏でて止まる長さに巻かれ、真鍮球は、指先で少し突けばゆっくりとガラス板の上を転がり落ちる緩やかな傾斜の頂点に置かれた。
「もし、昨日ガイルが言った通り、世界が本当に『一分間だけ丸ごと飛んでいる』んだとしたら……」
アレンはピンセットを置き、真鍮の右腕の指先で、静かに真鍮球を突いた。
球が、微かな音を立てて坂を転がり始める。同時にオルゴールのストッパーを外し、砂時計をひっくり返し、振り子を揺らした。
「この部屋の中にだけ、一分間分の『矛盾』が残るはずだ。飛んだ瞬間に球の転がりは止まり、インクは途中で凍りつき、蝋燭の炎は一分分の長さを残して静止する。世界が一分を誤魔化そうとしても、物理現象の辻脄だけは絶対に合わなくなる」
アレンの意図を理解したエレノアが、息を呑んで作業台を見つめる。
十四時十三分。
街中の時が凍りつき、誰もが身構えるあの時刻がやってくる。チ、チ、チ、と安物の懐中時計が秒を刻む。アレンは真鍮の腕を、実験装置の前にかざしたまま、その時を待った。
そして──十四時十四分。
一瞬の静寂。
十四時十五分。
世界は、何事もなかったように息を吹き返した。
エレノアは慌てて作業台へすがりつく。アレンは鋭い視線で、仕掛けた罠のすべてを網羅するように凝視した。
だが──実験は、失敗した。
すべての品々が、完璧すぎるほどの『辻脄』を合わせてそこに存在していた。
傾きかけた蝋燭は、一分間じわじわと燃え進んだ正確な長さまで短くなり、溶けた蝋が床に垂れていた。オルゴールはちょうど一分分の演奏を終えて完全に鳴り止んでおり、砂時計の砂は一分分だけきれいに下に落ちきっている。転がしたはずの真鍮球は、傾斜を転がり落ちて、一分後に到達しているはずのガラス板の端でぴたりと止まっていた。
どこにも、何の矛盾もない。
世界が一分間静止した形跡も、途切れた形跡もない。すべてが、当たり前のように流れた一分間の結果を示している。
アレンは初めて、深く眉間を険しく歪めた。
「……バカな。何もかも、計算通りに時間が経過した跡が残ってやがる……」
ガイルの記憶が飛び、荷馬車の位置や煙突の煙がずれていたのは紛れもない事実だ。なら、この完璧な物理現象の連続性は一体何だ。
アレンが唇を噛み締め、視線を落とした、その時だった。
唯一。
その完璧な整合性の中で、完全に孤立している物があった。
バラバラから再び組み直され、作業台の真ん中に鎮座している、あの銀色の時計。
他のすべての時計が、そして蝋燭や真鍮球が「一分が経過した世界(十五分)」を証明している中で。
その銀時計の針だけは、今も頑なに──『二時十四分』を指したまま、冷たく静止していた。
それを見たアレンの脳裏に、悍ましい仮説が閃く。
「時間を飛ばしてるんじゃねぇ」
アレンは自分の真鍮の右腕をじっと見つめ、それから銀時計に静かに触れた。
「二時十四分になった瞬間、世界そのものを一分後の状態へ編集してやがるんだ」
「……辻褄まで全部合わせてな」
蝋燭を減らし、砂を落とし、オルゴールを止め、人間の記憶を糊付けする。
世界そのものを丸ごと都合よく改ざんしている。
だが、この銀時計だけは、その調停者の『世界編集』の権能を完全に拒絶し、改ざんされる前の本物の二時十四分に踏みとどまり続けている。
相手は、単なる怪物ではない。世界そのものを書き換える編集者だ。
だとすれば──
昨日までの俺たちが、本当に存在していた保証なんて、どこにもねぇ。
(第46話:『奪われた一分』 ・ 完)
(次回「第47話:編集者の爪痕」へ続く)




