第45話:『不発の二十四時間』
境界壁の『穴』と、夜の屋根に刻まれた『歯車の刻印』。
それらの噂が街中へ広がるのに、二十四時間も必要なかった。兵団やギルドがどれほど情報規制を敷こうとも、目撃者の数があまりにも多すぎた。
「二時十四分になると、何かが起きる」
根拠のない、だが無視するにはあまりにも不気味な噂が、目に見えない疫病のように街の空気を侵食していく。
それでも、日常は止まらない。市場には色鮮やかな野菜が並び、鍛冶屋はいつも通りに火花を散らして槌を振り下ろし、路地裏では子どもたちが声を上げて走り回っている。
けれど、何かが決定的に違っていた。
誰もが、一日に何度も、それも異様な頻度で街頭の時計や懐中時計を見上げるのだ。
午前十時。何もない。
昼十二時。何もない。
午後一時。やはり、何もない。
だが、その瞬間が近づくにつれて、街全体の喧騒が目に見えて目減りしていった。大通りの会話は途切れがちになり、人々の視線は時計の針へと吸い寄せられていく。
同じ頃、ジャンク屋の工房で、アレンたちは静かにその時を待っていた。
作業台の上には、完全に組み立て直されたあの銀色の時計。その傍らにはガイルが持ち込んだ古びた記録簿、そして境界壁の断面から削り取ってきた微細な石粉。
「全員で、二時十四分を観測する」
アレンの低い言葉に、エレノアは小さく頷き、ガイルは生唾を呑み込んだ。
アレンの真鍮の右腕は、机の上の銀時計をじっと指し示したまま、微動だにしない。
十四時十三分。
街中の時が、凍りついたように静まる。遠くの広場からも、人々の息を呑む気配が伝わってくるかのようだった。街中の感情が、ただ一つの時刻へ向けられていた。
そして──十四時十四分。
……何も起きなかった。
境界壁に新たな穴が開くこともなければ、空が割れることもない。
窓の外の屋根に黒い影が現れることもなく、耳障りな心音が響くこともない。
誰も死ぬこともなく、誰も消えることもなかった。
十四時十五分。
世界は、何事もなかったように息を吹き返した。
長い沈黙の後、窓の外の広場から、地鳴りのような安堵の溜息と、それに続く兵士たちの乾いた笑い声が聞こえてきた。
「なんだ、ただの噂か」「怯えて損をしたな」
堰を切ったように市場の活気が戻り、街は瞬く間にいつもの騒がしさを取り戻していく。ガイルもまた、椅子の背もたれに深く身体を預け、大げさに胸を撫で下ろした。
「おいおい、人騒がせな時計だぜ。アレン、エレノア、どうやら俺たちの取り越し苦労だったみたいだな」
エレノアも胸の動悸を抑えながら、小さく息を吐く。
だが、アレンだけは、一言も発しなかった。
アレンの視線は、作業台の上の銀時計に、釘付けになったまま動かない。
「アレン……?」
不審に思ったエレノアが、彼の視線を追って時計の文字盤を覗き込み──その表情を凍らせた。
銀時計の針は、今も頑なに『二時十四分』を指して止まっている。
それはいい。この時計が狂っているのは分かっていた。
だが、エレノアが自身のポケットから取り出した、普通の、今もカチカチと音を立てて動いているはずの安物の懐中時計。その文字盤は、明確に次の時刻を示していた。
──二時十五分。
「……ねえ、ガイル。あなたの時計は、今、何分?」
エレノアの震える声に、ガイルが首を傾げながら自分の時計を見る。
「ん? 二時十五分だが……それがどうした?」
アレンはゆっくりと拡大鏡を外し、窓の外の広場を見下ろした。
そこでは、大時計の下で住民たちが笑い合い、日常を謳歌している。その大時計の針もまた、等しく『二時十五分』を指していた。
「ガイル。お前、さっき『二時十四分』になった瞬間から今までの間、何を考えてた?」
「は? 何って……時計の針をじっと見て、何も起きないな、って……」
「じゃあ、その時、広場の荷馬車はどこを走ってた?」
「え……? そりゃ、大通りの、真ん中あたりを……いや、待てよ」
ガイルの顔から、急速に血の気が引いていく。
「……覚えてるはずなのに、思い出せねぇ。十四分の間、俺が何を見て、何を考えてたか、中身が綺麗さっぱり抜け落ちてやがる」
アレンは無言で窓の外を凝視し続けた。
荷馬車が進みすぎているだけではない。さっきまで真っ直ぐたなびいていた煙突の煙の位置も、広場を歩く人々の歩幅も、すべてが物理的な移動時間を無視して、一分後の位置に唐突に『存在する』。
「世界中が、一分進んだんじゃねぇ」
アレンは銀時計のガラス面を、真鍮の指先で静かに叩いた。
「俺たちも含めて、この街のすべてが一分間、丸ごと『飛ばされた』んだ。この時計だけを、その場に置き去りにしてな」
何も起きなかったのではない。
誰一人として気付けないまま、世界はその一分間を書き換え終えていた。
(第45話:『不発の二十四時間』 ・ 完)
(次回「第46話:奪われた一分」へ続く)




