第44話:『歪んだ時刻』
夜明け前の工房は、死んだように冷えていた。
作業台の上には、ガスランプの淡い光に照らされた銀色の時計が、無残にバラバラにされて並んでいた。
数百に及ぶ細かなネジ、精密に切り出された真鍮の歯車、渦を巻くゼンマイ、時を刻むための脱進機。それらはアレンの手によって、職人らしい几帳面さで一本ずつ、寸分の狂いもなく整然とキャンバス布の上に並べられている。
アレンは一睡もしていなかった。
拡大鏡を片目に嵌めたまま、彼はピンセットを握る手を止め、冷え切った指先でこめかみを強く揉んだ。
──理由がない。
どれだけ分解し、精査しても、この時計が『二時十四分』で止まる物理的な理由が、どこにも存在しないのだ。
主ゼンマイのトルクは正常。輪列歯車の摩耗もなければ、芯の歪みもない。潤滑油が固着しているわけでもなく、テンプの振り角も、脱進機の噛み合わせも完璧だった。
機械としては、どこからどう見ても100点満点。普通なら、組み直せば何の問題もなく滑らかに時を刻み始めるはずの、極上の工芸品だ。
なのに、組み直すと必ず──。
二時十四分。
その位置に針が差し掛かった瞬間、まるで目に見えない強固な壁に突き当たったかのように、すべての歯車がピタリと回転を拒絶する。
アレンは吐き捨てるように息を吐き、もう一度、部品を一つずつピンセットで持ち上げては、大型顕微鏡のレンズの下へ滑り込ませた。
金属の微細な削れ、熱による歪み、あるいは外部からの磁化。考えうるあらゆる『故障』の可能性を、網羅するように調べていく。
だが、何もない。部品はすべて、新品同様に健全だった。
壊れているのは、時計の側ではない。
「……時計が止まってるんじゃねぇ」
ピンセットを台の上に置き、アレンは独り言のように低く呟いた。その声は、朝の静寂の中にひどく不気味に沈んだ。
「この時刻だけが、動くことを拒んでやがる」
真鍮の右腕の奥で、ギチ、と歯車が小さく軋んだ。
朝霧が街を包み込む頃、ジャンク屋の裏口から、昨日と同じように血色の悪い顔をしたガイルが滑り込んできた。彼は昨日の一件からろくに眠っていないらしく、目の下に濃い隈を浮かべ、数冊の古びた記録簿を抱えていた。
「アレン……ギルドの奥の書庫から、過去の街の記録を片っ端から漁ってきた。お前が言った通りだ。あの境界壁の穴の周囲を調べてた調査魔術師たちも、口を揃えて『エネルギーの痕跡がない』って頭を抱えてやがる。……だが、それより、これを見てくれ」
ガイルは作業台の隅に古い羊皮紙や、埃っぽいギルドの航海日誌のような束を広げた。
「新しい怪物や異常現象の報告じゃない。過去の、この街で起きた『原因不明の災厄』の記録だ」
ガイルが指差したページを、アレンは拡大鏡越しに睨みつける。
五十年前、街の中央区を焼き尽くした大火災。
百年前、一夜にして数十人の住民が消え去った集団失踪事件。
起きた事象も時代もバラバラの、不運な災害の羅列。
だが、その歴史的な大事件の発生時刻を記した欄には、歪んだインクで全く同じ数字が刻まれていた。
──夜中、二時十四分。
「何なんだ、これは……」
ガイルが己の腕をさすりながら、怯えた声で呟く。
「これだけじゃない。まるで、この街の歴史そのものが、その時刻になるたびに何かに噛みちぎられてるみたいだ……」
アレンは答えず、ただ分解された銀色の時計の文字盤をじっと見つめていた。
──その日の夜。
二階の寝室で、エレノアは毛布を頭から被りながら、暗闇の中で息を潜めていた。
昨夜のあの『黒い影』の残像が、目を閉じるたびに瞼の裏に浮かび上がる。首筋の紋章は、今はかすかに熱を持っているだけで静かだった。
階下の工房からは、もうあの不気味な心音は聞こえない。アレンが時計をバラバラにしたままだからだろうか。やっと、静かな夜が戻ってきたのだと、自分に言い聞かせるように深く息を吐く。
気休めのために、枕元に置いた自分の安物の懐中時計へと目を向けた、その時だった。
カチッ。
静寂を切り裂くように、硬質な機械音が一度だけ鳴った。
エレノアは跳ね起き、時計の文字盤を凝視した。
安物の懐中時計の針は、二時十三分を指したまま完全に止まっている。アレンの工房にあるあの銀時計ではない。彼女がずっと愛用していた、普通の時計だ。
カチッ。
また、音がした。
音は、枕元からではない。部屋の隅の、暗闇の中から聞こえてくる。
エレノアが恐怖に震えながら視線を向けると、そこには、いつの間にかアレンが組み立て直したらしい、あの銀色の時計が、影のように佇んでいた。
月光を浴びた文字盤の上で、長い針が静かに動く。
二時十四分。
そこで止まるはずだった。
だが、時計は、悪意を孕んだかのような明確な意思を持って、さらに一度だけ、針を進めた。
カチッ。
──二時十五分。
一瞬の静寂。時間が、進んだ。
ほんの一瞬だけ。
エレノアが安堵の息を漏らそうとした、その次の瞬間──
チチチチチ、と狂ったような逆回転の音を立てて、銀色の針が目にも留まらぬ速さで弾かれた。
カチリ。
引き戻された針は、再び、あの傲慢な位置でぴたりと静止した。
──二時十四分。
夜中の二時十四分を指したまま、その時計だけが、この世界の正しい時間を知っていた。
(第44話:『歪んだ時刻』 ・ 完)
(次回「第45話:不発の二十四時間」へ続く)




