第43話:『調停者の影』
理解できない痕跡は、いつも唐突に、そして暴力的な静けさをもって日常を侵食する。
翌朝、ジャンク屋の重い鉄扉を、まるで命乞いでもするかのように乱暴に叩く音が響いた。
アレンが鍵を外して扉を開けると、そこにいたのはギルドの顔見知りの情報屋、ガイルだった。いつもなら小綺麗な外套を羽織り、軽口を叩きながら現れる男の面影はどこにもない。帽子はどこかに落としたのか髪は乱れ、額にはべっとりと冷や汗がにじみ、顔色は死人のように白かった。
「おい……アレン、いるか……。頼む、手を貸してくれ。お前じゃなきゃ駄目だ」
ガイルは店内に転がり込むと、棚のガラクタにぶつかりそうになりながらアレンの胸ぐらを掴んだ。その手は目に見えてガタガタと震えている。
「落ち着け。何があった」
「街外れの、東の境界壁だ……。とんでもねえことが起きてやがる。隊商の護衛が今朝早くに見つけたんだが、もうギルドも兵団もパニックだ。……壊されたんじゃねえ。そんな生易しいもんじゃないんだ。アレン、お前のあの妙な右腕なら、あれが何なのか分かるかもしれない。とにかく来てくれ。あそこは、もう、普通の世界のルールが通じねえ……!」
ガイルのただ事ではない様子に、アレンは奥の部屋から冷たいタオルを首に巻いたエレノアを呼び出し、すぐに現場へと向かった。
東の境界壁へ近づくにつれ、街の空気が明らかに変わっていくのが分かった。
普段なら朝市へ向かう荷馬車で行き交う大通りが、不気味なほどひっそりとしている。住民たちは建物の隙間や窓から外を覗き込み、怯えた目でヒソヒソと囁き合っていた。
そして現場一帯には、耳が痛くなるほどの異様な静寂が広がっていた。
集まった数百人の野次馬たちは、壁から数十メートルも離れた場所で遠巻きにそれを取り囲み、誰もが押し黙っている。規制線を張っている若い兵士たちは、武器を握る手が恐怖で硬直していた。そのうちの一人は、生々しい胃液の臭いを地面に撒き散らしながら、四つん這いになって何度も激しく吐き戻していたが、それを介抱しようとする者すら不気味な静けさに気圧されて動けない。
誰も、一歩も前に進めないのだ。
防壁のすぐ近くにある民家で飼われていたはずの猟犬たちは、小屋の隅で尾を股の間に巻き込み、声を枯らしてガチガチと震えていた。空を見上げれば、渡り鳥の群れがその空間の手前でまるで目に見えない壁にぶつかったかのように、急激に軌道を変えて大きく迂回していく。
何より異常だったのは、空気の、そして風の流れだった。
荒野から吹き付けるはずの乾いた砂混じりの風が、防壁の『その部分』に差し掛かった瞬間、まるでそこに強固なガラスの球体でもあるかのように、不自然に左右へと避けて流れていく。風の音すら、そこでは綺麗に削ぎ落とされていた。
「……なんだ、これ」
アレンの隣で、エレノアが息を呑むのが分かった。
街を外敵から守るための巨大な石造りの防壁。その強固な壁の一部が、地上から一メートルほどの高さの場所で、直径一メートルほどの綺麗な真円状に『消えて』いた。
大砲で粉砕されたわけでも、強力な魔法で焼き尽くされたわけでもない。
厚さ数メートルはあるはずの石壁の断面をアレンが覗き込むと、そこには火傷の痕も、削られた際の微細な石粉すらも一切なかった。まるで、最初からその円柱の空間だけ、この世界の設計図からハサミで丸く切り取られたかのように滑らかだった。壁の向こう側にある、荒野の無機質な地平線が、その穴を通してあまりにも鮮明に丸く切り取られている。
「アレン……触っちゃ駄目よ」
エレノアの声に警告されるまでもなく、アレンは自身の右腕の異変に気づいていた。
真鍮の指先をその断面に近づけようとした瞬間、内部の小さなギアたちが狂ったように逆回りしようと軋み、パチパチと青白い火花を散らしたのだ。それと同時に、脳髄を直接かきむしられるような、理由のない強烈な嫌悪感と不快感がアレンを襲う。
その時、風すら通らない穴の中心、何もない宙の空気が、わずかに陽炎のように歪んだ。
気のせいではない。歪んだ空間の輪郭が結び、あの時計の裏蓋に刻まれていたものと完全に一致する──一箇所だけ噛み合わせの山が多い『歯車の刻印』が、一瞬だけ、焼き印のように虚空に浮かび上がり、すぐに霧のように消え去った。
「……あのガラクタと、同じだ」
アレンは苦々しく右腕を引っ込め、自身の指先を睨みつけた。
「誰かがここを攻撃したんじゃない。何かがここを、ただ普通に『通り過ぎた』だけだ。そいつの身体が触れた部分だけ、世界の器は消えた」
それが、この街に残された最初の痕跡だった。
──その日の夜。
ジャンク屋の二階の寝室で、エレノアはベッドの中でじっと目を開けたまま、暗闇を見つめていた。
昼間に見た、あの完璧なまでに滑らかな『虚無の穴』が脳裏に焼き付いて離れない。神のシステムを壊し、すべてが終わったと思っていた世界に、自分たちの理解を遥かに超えた何かが確実に紛れ込んでいる。
だが、彼女を本当に追い詰めていたのは、視覚の記憶ではなかった。
耳の奥だ。
トクン。
トクン。
トクン。
昼下がりにアレンが直した、あの銀色の時計。階下の工房の作業台の上に置かれているはずのそれが刻む音が、まるで枕元で鳴らされているかのように、執拗にエレノアの鼓膜を震わせ続けている。
アレンには硬質な機械の音に聞こえると言った。だが、エレノアの耳には、それはどう聴いても、濡れた肉塊が脈打つような、生々しい心臓の音にしか聞こえない。
トクン、と音が響くたびに、首筋の紋章が脈動に合わせてチクチクと針で刺されたように痛む。自分の心臓の拍動が、あの狂った時計の二時十四分という時間に、じわじわと乗っ取られていくような悍ましい感覚。
耐えかねてエレノアは身体を起こし、額の汗を拭った。少しでも気を紛らわせようと、冷えた夜気の満ちる窓の外へ目を向けた、その瞬間──彼女の身体のすべての血の気が引いた。
「……あ」
声にならなかった。
月明かりが冴え冴えと照らす、向かいの建物の低い屋根の上。
そこに、誰かが立っていた。
それは、濃密な夜の闇をそのまま人間の形にくり抜いたような、平坦な『黒い人影』だった。
目も、鼻も、衣服の境界線すらもない。ただそこにある光をすべて吸い込むような絶対的な黒。その輪郭だけが不自然なほど静止し、微動だにせず、じっとこちらのジャンク屋の窓を──エレノアのことを、見下ろしている。
エレノアの首筋の紋章が、カチリ、と音がしたかと思うほど急激に、凍りつくような冷たさを帯びた。全身の筋肉が恐怖で硬直し、指一本動かせない。
「アレン……! アレン、起きて……っ!!」
狂ったように叫びながら、エレノアは隣の部屋の扉を突き破るようにして飛び込んだ。ベッドで横になっていたアレンは、その悲鳴の異常さに即座に反応し、真鍮の右腕を構えて跳ね起きた。
「どうした、エレノア!」
「窓の外! 向かいの屋根の上に、誰かが……影が、こっちを見てるのよ!」
アレンはエレノアの肩を抱き寄せながら、即座に窓際へと踏み込み、片目に拡大鏡を嵌めて窓の外の夜陰を鋭く睨みつけた。
しかし、向かいの建物の屋根の上には、もう誰もいなかった。
ただ、月光に照らされた古い瓦が、寒々しく並んでいるだけだ。周囲の路地にも、人っ子一人動く気配はない。
「見間違いじゃない……! 確かに、あの黒い影が、私を……」
「分かってる。落ち着け、エレノア。お前の見間違いじゃねえよ」
アレンの低い声が、夜の寝室に響いた。彼の視線は、拡大鏡のレンズ越しに、向かいの屋根の一点へと完全に固定されていた。
「……あそこを見ろ」
エレノアが涙目のままアレンの指差す先を凝視する。
先ほどまであの不気味な黒い影が直立していたはずの、まさにその場所。
古い瓦の表面が、まるで超高温の熱を浴びたかのようにドロドロに溶け、歪んだクレーターのように深く穿たれていた。
溶けた瓦の底には、一箇所だけ噛み合わせの山が多い──あの歯車の刻印が、静かに残されていた。
その瞬間だった。
トクン。
今まで聞こえていた心音とは比べものにならないほど重い一拍が、エレノアの耳の奥で鳴った。
「嫌っ……!」
エレノアは短く悲鳴を上げてその場にへたり込み、両手で強く耳を塞いだ。アレンの真鍮の右腕が、小さく、ギチ、と軋んだ。
夜中の二時十四分を指したままの時計だけが、今も正しい時を刻み続けていた。
(第43話:『調停者の影』 ・ 完)
(次回「第44話:歪んだ時刻」へ続く)




