第40話:『空から落ちた依頼人』
世界がひっくり返った、その翌朝。
いつもと変わらないジャンク屋の屋上で、アレンは寝癖のついた頭を掻きながら、東の空を睨みつけていた。
夢じゃなかった。
雲を切り裂くようにして天空に浮かぶ、逆さまの巨大な近代都市。
日の光を浴びて無機質に輝くその大質量は、今日も変わらず、そこにあった。
「……おい、アレン。飯、冷めるぞ」
下から声をかけてきたのは、背伸びをしてエプロン姿になったミラだ。
階下の居住スペースに下りると、テーブルの上にはいつも通りの硬いパンと、ありあわせの野菜を煮込んだスープが並んでいる。
壁の向こうの路地からは、朝早くから大騒ぎする群衆の声が聞こえていた。
『神の御業だ!』と辻説法を始める宗教家。
『すぐに戦争が始まるぞ!』と荷物をまとめて街を出ようとする商人たち。
学者が発狂しただの、軍が臨戦態勢に入っただの、街は未曾有のパニックに包まれている。
だが、アレンはスープをずずっと音を立てて啜り、パンを千切った。
「……固ってえな、今日のパン。ミラ、これどこのだ?」
「もう、文句言わないの! 物流が混乱してて、これでも手に入れるの大変だったんだから!」
「ま、食えるだけマシか」
アレンのその態度に、ミラは呆れつつも、張り詰めていた肩の力をそっと抜いて微笑んだ。
世界がどうなろうと、このジャンク屋の主人は変わらない。その絶対的な事実だけで、不思議と呼吸が楽になった。
「エレノアは?」
「さっきからずっと、奥の作業場で自分の腕を見てる。……声をかけづらい雰囲気でさ」
アレンは残りのスープを胃袋に流し込み、席を立った。
薄暗い工房の奥。
エレノアは真鍮の椅子に腰掛け、自身の右腕を見つめていた。
皮膚に深く刻まれた、幾何学的な『真鍮の紋章』。それは時折、生き物のようにかすかに青く明滅している。
「調子はどうだ、相棒」
「……最悪よ。自分の身体の中に、私の知らない『言語』が居座ってるみたいで反吐が出るわ」
エレノアは自嘲気味に笑い、袖を引いて紋章を隠した。
世界OSの深層を覗き、世界の『壁』を理解していた彼女だからこそ、その紋章が告げる「何か」に、誰よりも敏感になっていた。
その時だった。
一階の、ジャンク屋の正面入り口の重い鉄扉が、激しく叩かれた。
激しいパニックに陥った暴徒か、あるいは軍の徴用か。アレンは腰のボルトクリッパーに手をかけ、警戒しながら扉を開ける。
だが、そこに立っていたのは──。
ボロボロに引き裂かれた、見たこともない緻密な織物の衣服。
煤と泥に汚れ、全身に無数の擦り傷を作った、小柄な少女だった。
少女は虚ろな瞳でアレンを見上げると、かすれた声で、しかし明確にこう言った。
「……ひと、を……さがして…る」
「人探し? 悪いが、うちはジャンク屋だ。誰をだ」
少女はしばらく黙り込んだ。その瞳には、焦点が結ばれていない。
「……わからない」
「は?」
「顔も……名前も……。でも、探さなきゃいけないの」
少女はアレンの背後に立つエレノアの姿を見た。
正確には──エレノアの首筋の、服の隙間から一瞬覗いた『真鍮の紋章』を。
チカッ、と。
エレノアの紋章が、今までで一番強く、激しく明滅した。
エレノアが息を呑み、一歩後退る。アレンもその異変に気づき、目の前の少女を睨みつけた。
「……お前、どこから来た」
少女はアレンの威圧感に怯えることもなく、ただ、小さく震える指を伸ばした。
彼女が指差したのは、アレンではない。
ジャンク屋の開け放たれた扉の向こう──遥か上空に浮かぶ、あの逆さまの都市だった。
「……あそこ」
静寂が、ジャンク屋を支配した。
「……エレノア」
アレンが低く、背後の相棒を呼ぶ。
「知ってんのか、あれを」
エレノアは、自身の首筋に刻まれた、激しく脈打つ紋章を抑え込んでいた。
その顔は、世界OSと対峙した時ですら見せなかったほど、蒼白に染まっている。
「……知らない」
少しの沈黙。
エレノアは、絞り出すように呟いた。
「でも……知りたくなかったわ」
少女の体から、力が抜ける。
倒れ込む小さな身体を、アレンは真鍮の右腕で、静かに受け止めた。
世界を囲んでいた壁は、もうない。
そして今、その「向こう側」から落ちてきた謎が、ジャンク屋の腕の中にあった。
(第40話:『空から落ちた依頼人』 ・ 完)
(次回「第41話:外界の言語」へ続く)




