第36話:神域上昇
光の塔に足を踏み入れた瞬間、世界のあらゆる『前提』が崩壊した。
重力はない。時間の感覚も、距離の概念も、すべてが液体のように曖昧に融けていく。
アレンたちが登っているのは、物理的な階段などではなかった。それは、世界の中心部へ向かって超高速で噴き上がる、因果律の奔流。二人はその濁流を、力任せに逆流するように上へ上へと進んでいた。
「く、っ……!」
アレンの口から、短い呻きが漏れる。
先ほど神の番人に刻まれた右腕の傷が、周囲の超高密度な因果に晒され、再び激しく弾けて開いたのだ。
どっと溢れ出た鮮血が、アレンの指先から滴り落ちる。
だが、その血は下へとは落ちなかった。
空間に触れた瞬間、パチパチと幾何学的な数式へと変換され、そのまま虚空へと蒸発して消えた。
ここは現実ではない。神の演算領域の内側。
一歩進むごとに、己の存在そのものが世界OSの基幹プログラムと摩擦を起こし、削られていく。そんな極限の異常空間を、アレンは顔色一つ変えずに歩き続けた。
「アレン、前方に高エネルギーの因果反応! 世界OSの、より上位の防衛システムよ……って、え……?」
警戒の声を上げたミラが、その直後、奇妙なものを見るように声を失った。
行く手にそびえ立っていたのは、自動迎撃の数式を無数に展開する、巨大な『防衛城塞ユニット』だった。空間そのものを塞ぐように配置された神域の関所。
――だが、それはすでに完全に機能停止していた。
城塞の中央部には、強引に抉じ開けられたような巨大な大穴が開き、内部の防衛コードが酷く焼き切れて、ボロボロと消滅しかけている。
「誰が……こんな規格外の破壊を……」
震えるミラを他所に、アレンは壊れた城塞の傍らを平然と通り過ぎる。
「決まってるだろ。あの馬鹿以外に誰がいる」
アレンの口元が、わずかに不敵に歪んだ。
上層へ進むにつれて、空間の『白』に、激しいノイズが混じり始めた。
光の壁面に、まるで古いビデオテープのような走査線が走り、いくつかの映像が不鮮明に浮かび上がる。
『なぁエレノア、このクズ鉄どうすんだよ』
『うるさいわね、ジャンク屋なら黙って磨きなさいよ』
それは、世界OSが「不要なバグ」として歴史から完全に消去したはずの、二人の何気ない日常の残像だった。世界がどれほど無かったことにしても、この神域の底だけは、二人の生きた時間を確かに覚えている。
さらに進むと、ノイズは混迷を極め、世界OSによって「間引き」され、滅ぼされてきた無数の平行世界の残骸が、絶望的なスケールで視界を埋め尽くした。
「アレン……これが世界の真実よ? 私たちが挑もうとしている神の、本当の姿なのよ……っ!」
世界の残酷さに息を呑むミラを他所に、アレンはただの一度も、その世界の残骸に視線を向けなかった。
一瞥もくれず、ただ真っ直ぐに上だけを見据えて進んでいく。
「世界の秘密なんざ、どうでもいい」
アレンは己の真鍮の右腕を強く握り締める。
「エレノアはどこだ。俺が知りたいのは、それだけだ」
その言葉の強さに、ミラは言葉を失い、ただその背中を追った。
やがて、光の奔流の最上層付近。
行く手を完全に塞ぐように横たわる、山をも思わせる超巨大な影が見えた瞬間、ミラの顔色が恐怖に強張った。
「嘘……こんなの、古い記録でしか見たことがない……っ。世界OS最上位防衛機構、神の盾……!」
世界を丸ごと一つ圧殺できるほどの絶望的な質量。
だが――それもまた、すでにただの骸だった。
ミラの戦慄を置き去りにするように、山のごとき巨躯は、中心から一刀両断に叩き切られていた。その凄まじい切断面には、アレンの右腕と全く同じ、鈍い『真鍮の色』をした、熱い焼け跡がこびりついている。
あいつは、たった一人で、この神の盾すらもブチ破って先へ進んだのだ。
その巨躯の足元、白い床面に、やはりナイフの刃先で刻まれた文字があった。
――『まだ生きてるなら来なさい』
少し先に、もう一つ。
――『しぶといわね』
さらにその奥に、一つ。
――『ここから先は本当に死ぬわよ』
そして、最上層の境界線に、最後の文字。
――『でも来るんでしょ』
引き止める言葉でも、命令でもない。お前は来る、絶対に諦めない。アレンの足音をただ当然のように待っている、あの偏屈な少女の、世界で一番傲慢な信頼がそこにあった。
アレンはその文字を見下ろし、小さく鼻で笑った。
「当たり前だ」
アレンが顔を上げる。
光の塔の最果て。
どこまでも続く白のさらに奥、世界の絶対的な頂点に、それまでは影も形も見えなかった【神の玉座】の、巨大で冷徹なシルエットが、ついにその姿を現した。
光の最果てにエレノアがいるのか、それとも、あの子が遺した過酷な何かが待っているのかは分からない。
だが――あいつが、この先へ進んだことだけは、もう一ミクロンも疑いようがなかった。
――世界は、まだ生きていた。
(第36話:神域上昇 ・ 完)
(次回「第37話:『神の玉座』へ続く」)




