第35話:神の心臓
真鍮の扉を抜けた瞬間。
アレンとミラの五感を満たしたのは、音の消えた、圧倒的な『白』だった。
天井もない。床もない。
無限に広がる、どこまでも平坦で巨大な空間。
だが、その白は決して神聖なものではなかった。
「何……これ……」
ミラがかすり切れた声で呟き、足元を見つめる。
よく見れば、その白い空間の表面には、視界が狂うほどの密度で、無数の『数式』と『文字列』が超高速で流れ続けていた。
流動する幾何学的なコード。明滅する因果の羅列。
それはまるで、世界という巨大な生命体の血液が、この空間を媒介にして循環しているかのようだった。
ドクン。
空間の最奥、天も地もない中心部に、それはあった。
無数の光の線、数式、運命、歴史、未来――それらが複雑に絡み合い、一つの巨大な「球体」を形作って脈動している。
ドクン。
その球体が鼓動するたびに、数式の奔流が世界中へと送り出されていく。
世界の記録者であるミラは、その脈動の意味を瞬時に理解し、全身の血の気が引いていくのを感じていた。
「これが……世界OS……。世界そのものを、リアルタイムで演算し続けている心臓……」
一回の脈動ごとに、どこかの世界が生まれ、どこかの世界の運命が消えている。
そのあまりにも巨大な「神の営み」に圧倒される中、アレンは無言で一歩、前へ踏み出した。
その瞬間、アレンのブーツが触れた床面に、バチバチと赤黒い光のグリッドが走った。
【因果律照合】
【存在確認――異常個体検出】
【不適合者識別――排除フェーズへ移行】
「ッ……!」
空間そのものが、明確な『敵意』を持ってアレンを睨みつけたかのような錯覚。
世界そのものが、アレンという存在を「侵入した異物」として認識したのだ。世界OSによる、本気の免疫反応。
ガサリ、とアレンたちの前方で、白い空間の『表面』が不自然に剥がれた。
剥がれ落ちた数式と文字列が、まるで白血球のように一箇所に集まり、急速に質量を持ち始める。
現れたのは、人型に近い、しかし決定的に異なる「何か」だった。
顔はない。目もない。口もない。
ただ、世界を狂わせるバグを、文字通り「修正」するためだけに出現した、因果律の兵器。
「駄目……! アレン、戦っちゃ駄目!」
ミラが悲鳴のような声を上げる。
「こいつらは普通の敵じゃない! 空間そのもの、世界そのものが形を成した兵器よ! 刃を振るえば、私たちの存在確率そのものが削られる……っ!」
だが、番人は待たない。
数式で形成された腕が、音もなくアレンの胸元へと突き出される。触れられれば終わりだ。アレンという存在そのものが、世界から「消去」される。
アレンは引かなかった。
己の前に突き出された、不格好で、鈍く光る真鍮の右腕。
武器ではない。世界を殺すための――『鍵』。
「エレノア。お前の目利き、試させてもらうぞ」
アレンは不敵に笑い、迫り来る番人の頭部へ向けて、真鍮の右腕を剥き出しのまま突き出した。
ガキン――!
世界が軋むような、硬質な音が響く。
次の瞬間、アレンの右腕の隙間から、鮮血が激しく吹き飛んだ。
「ガ、ッ……!」
アレンの歯列が激しく軋む。
世界の免疫システムに直接触れた代償。アレンの肉体という「データ」が、相手の存在確率と相殺され、猛烈に削り取られる激痛が走ったのだ。
だが、消滅したのはアレンだけではなかった。
真鍮の右腕が触れた箇所から、番人を構成していた無数の数式が、まるで火をつけられた紙のように、ボロボロと黒く反転し、崩壊を始めていた。
「……ありえない……」
ミラが、己の目を疑うように絶句する。
「そんな権限……神しか、持ってないはずなのに……!?」
切り札は、無敵の盾ではない。
世界のシステムを物理的にハッキングし、因果律を強制上書きする。それは同時に、世界そのものと己の命を削り合う、極限の諸刃の剣だった。
ばらばらに霧散していく番人の残骸を見つめながら、アレンは傷ついた腕を乱暴に拭い、ふっと息を吐いた。
「なるほどな。命の取り合いができるだけ、さっきの化け物どもよりよっぽどジャンク屋らしい」
アレンは、番人が完全に崩れ去った『その足元』に、何かが刻まれているのを見つけた。
白い床面に、乱暴に、しかし深く刻まれた、見紛うはずのない筆跡。
――『遅い』
あいつの声が、脳裏に直接響いた気がした。
「……あの野郎」
アレンの口元から、自然と熱い笑みが溢れる。
あいつは、ここにいた。
そして、アレンが必ずここに来ると信じて、今もこの先を歩いている。
アレンは痛む腕を庇うこともなく、さらに白い空間の奥へと歩を進めた。
脈動する「心臓」の傍らを通り抜け、データの海を進む。その途上、まるでアレンを導くように、あるいは試すように、等間隔でエレノアの文字が床に刻まれていた。
少し進んだ場所に、一つ。
――『まだ帰れるわよ』
さらにその奥に、一つ。
――『でも帰らないんでしょ』
...そして、世界の中心へと続く境界線の手前に、それはあった。
――『知ってる』
アレンは立ち止まり、その文字を見下ろした。
引き返すための警告ではない。お前は来る。絶対に諦めない。すべてを見透かした上での、あまりにも不器用で、傲慢な、世界で一番強い「信頼」がそこにあった。
「ああ、帰らねえよ。お前をぶん殴るまではな」
アレンが静かに応じ、顔を上げる。
その視線の先。
脈動する世界OSの心臓、そのさらに上空へと伸びる、途方もない【光の塔】が、天のない白い空間を貫いていた。
神の中枢のさらに奥。世界を支配する絶対の頂点へと続く、唯一の一本道。
光の塔の最果て。
そこにエレノアがいるのか。それとも、あの子が遺した過酷な何かが待っているのか。
アレンにはわからない。
だが――あいつが、この先へ進んだことだけは確かだった。
アレンは真鍮の右腕を再び強く握り締め、迷うことなくその光へと歩き出した。
――世界は、まだ生きていた。
(第35話:神の心臓 ・ 完)
(次回「第36話:『神域上昇』へ続く」)




