第34話:不適合者の揺り籠(前編)
カラン、と乾いた金属音が虚無の底に響いた。
アレンが足元に転がっていた執行機関の頭部――かつて世界を破滅に導きかけた、神の兵器の残骸を無造作に蹴り飛ばした音だ。
「アレン、待って……!」
ミラが泥に塗れるのも構わず、這うようにしてその残骸に駆け寄り、震える手でそれを拾い上げた。
世界の記録者として、その兵器の恐ろしさを誰よりも知る彼女だからこそ、その結晶回路の断面を覗き込んだ瞬間、脳髄を直接殴られたような致命的な『異常』に気が付いた。
「……ありえない。こんなこと、あっていいはずがないわ……」
ミラの喉が、恐怖で引き攣ったように鳴る。
内部の結晶回路は、破壊されていなかった。力任せに叩き潰され、機能を停止させられた形跡など、どこにもない。
むしろ――精密に、美しく、元の構造を完全に書き換えられていた。
「待って……違う……これ、壊したんじゃないわ……」
「何だって?」
アレンが足を止め、肩越しに振り返る。ミラは真っ白になった顔のまま、結晶回路を凝視したまま呟いた。
「この執行機関……システムからの強制命令を物理的に遮断された上で、完全に『再設計』されてる……!」
神の兵器を、分解し、理解し、自分の都合のいいように組み直している。
それはただ「敵を倒した」という次元の話ではない。世界のルールそのものを、ただの『書き換え可能なプログラム』として完全に見下していなければ、絶対に不可能な暴挙だった。
二人は、仮初めのキャンプのさらに奥、ガラクタのビルが不自然に入り組んだ隙間へと足を進める。
薄暗い空間を通り抜け、最奥にある錆びついた鉄扉を押し開けた瞬間――ミラの呼吸が、完全に止まった。
そこは、一人の人間の『狂気』で床から天井まで埋め尽くされた、異様な研究室だった。
ミラは吸い寄せられるように、壁に貼られた一枚の金属紙に歩み寄る。
そこに描かれていたのは、世界OSが世界の初期化を行う際の『演算周期』のタイムラインだった。
「なによ、これ……。どうして、世界の『外側』にいる人間が、こんな数式を導き出せるの……?」
冷たい汗が、ミラの頬を伝う。
彼女は慌てて、床に散らばる別のメモを拾い上げた。そこには、世界のループ構造を維持するための『因果律の強制スクロール』のバグを突くための計算式。さらに別の束には、執行機関と世界OS中枢との『通信経路の遮断方法』が、びっしりと狂気的な密度で書き殴られている。
一枚、また一枚とメモをめくるたび、ミラの視界が恐怖でぐらりと揺れた。
「待って……これ、本当に全部、あの子が一人で書いたの……?」
ミラはゆっくりと顔を上げた。
壁だけではない。見上げれば、崩れかけた天井のコンクリートにまで、炭とナイフの刃先で、気が遠くなるような数の幾何学模様とシステム解析図が描き殴られている。部屋のすべてが、世界OSという『神』を完全に解剖するための、緻密極まるハッキング計画書と化していた。
「こんなの……世界の記録者だった私ですら、理解できない領域よ……。あの子は一体、どれだけの時間を、この地獄の中で……! 」
圧倒的な質量の知性と狂気に押し潰され、ミラはその場に膝をつきそうになる。
だが、その横を、アレンが静かに通り過ぎた。
アレンはミラのように数式を見るのではない。ジャンク屋の、そしてエレノアを誰よりも知る男の目で、壁に刻まれた『傷跡』を見つめていた。
「ミラ。お前はこれが完璧な計画書に見えるか」
「え……? 当然でしょ、完璧なんてレベルじゃないわ。神の演算の裏の仕様を、すべて暴いてる……」
「いや、違うな」
アレンは、壁の一角――無数に重ねられた数式の下層にある、ひときわ深いナイフの傷跡を指差した。
「ここだけ、何度も後からガリガリと削って、上から書き連ねられてる。この削り方はあいつ特有の、工具の刃先が滑った時の癖だ」
「それが、何だって言うのよ……!」
「こいつは答えを一発で導き出したんじゃねえ。ここにある何千枚のメモのほとんどは、あいつが積み上げた『失敗の山』だ。ここで一人で、何度も計算を間違え、法則を読み違え、その度に自分の無力を削り落として、この形に辿り着いたんだよ」
アレンの言葉に、ミラは息を呑んだ。
ただの天才の狂気ではない。世界の底辺で、錆びたボルトを一本ずつ拾い集めて機械を組み上げてきた、あのジャンク屋特有の、泥臭い『執念の積み上げ』がそこにはあった。
「……上等だ。置いてけぼりはごめんだぜ、エレノア」
アレンは口元を獰猛に歪め、部屋の最奥、解析図が収束する中心へと歩み寄る。
その巨大な解析図の中央。コンクリートを深く抉るような、最も強い筆致で、大きく一文が書き殴られていた。
『神は完成していない』
ミラの全身に、毛羽立つような戦慄が走る。
世界の記録者として、彼女は本能的に理解してしまった。
これは空想でも妄言でもない。
この女は、本気で神を殺そうとしている。
『世界OSは自己修復できない』
『中枢へ到達可能』
『殺せる』
救出を待つ囚われの姫など、最初からどこにもいなかった。
世界の外側、神の目の届かない暗闇の底で、彼女はたった一人で牙を研ぎ、世界を終わらせるための『神殺しの計画』を、完全に完成させていたのだ。
アレンは、壁に刻まれたその『殺せる』という血の滲むような三文字を、じっと見つめていた。
静まり返る空間の中、男の肩が、小さく震える。
「あいつ……本当に、一人でここまで来やがったのかよ」
それは恐怖ではなく、呆れ果てたような、そして狂おしいほどの熱を孕んだ独白だった。
「置いてけぼりはごめんだって、言ったはずだぜ。――エレノア」
(第34話:不適合者の揺り籠・前編 ・ 続く)




