第31話 : 共犯者のトリガー
世界OSの執行機関――『掃除屋』が、その無機質な腕を静かに振り上げる。
それは合理性と計算によって構築されたこの世界から、不要なバグを完全に消去するための絶対的な儀式だった。顔のない純白の執行プログラム。その指先が放つのは、すべてを均一な無へと還す冷徹な消去の輝き。
《異常ログ検知》
《LOOP残留データ確認》
《削除します》
鼓膜を打つ冷徹な機械音声。それが空間に響き渡った瞬間、世界の理が不気味に歪んだ。
アレンの背後――先ほどまで二人が立ち尽くしていた、見渡す限りの『腕の墓場』。そこに無造作に突き刺さっていた数千、数万の真鍮の義腕が、一斉に、狂ったように発光を始めたのだ。
「……ッ、なんだこれ……!?」
アレンの目が見開かれる。強烈な光の粒子とともに虚空に浮かび上がったのは、網膜を焼き尽くさんばかりの、膨大な文字列の群れだった。
【LOOP 143】
【LOOP 267】
【LOOP 589】
【LOOP 812】
【LOOP 991】
【LOOP 1304】――
空を埋め尽くす、圧倒的な数の『失敗の記録』。
墓場の地層から引き抜かれた無数の腕が、重力を無視して一斉に宙へと浮かび上がっていく。その圧倒的なスケールと空間を埋め尽くす鉄錆の物量に、神のシステムである掃除屋の演算回路すら一瞬、処理の優先順位を迷うように不規則に明滅した。
あまりの光景に誰もが思ったはずだ。あの無数の腕の雨を降らせ、数の暴力によって神のシステムを圧殺するのだと。
だが、違った。
宙に浮いた腕は、掃除屋へ向かって放たれることはなかった。それらは一本、また一本と、内側から爆発するように自ら砕け散っていったのだ。
砕けた破片は微小な真鍮の歯車となり、千切れた記憶の光の連続体となり、渦を巻いて現在のアレンの右腕へと猛烈な勢いで吸い込まれていく。
その瞬間、アレンの脳内に直接、堤防を決壊させた濁流のような「声」が流れ込んできた。それは窮地を救いに来た英雄たちの綺麗な応援などでは、決してなかった。
『もうやめろ』
『無理だ』
『これ以上進んでも、俺は、エレノアのところに届かなかった』
『何回やれば気が済むんだ』
『無駄だ。諦めろ、アレン』
それは、無惨に敗北してシステムに消されていった、過去の自分自身の生々しい絶望だった。死の間際に抱いた呪詛に近い後悔の本音。何千回分の「死の重圧」が一気に脳内へと流れ込み、アレンの膝がガタガタと激しく震え、折れかける。
「くそ、が……っ!」
かつての自分が、現在の自分を呪い、足を引っ張る。精神の汚染と、脳が焼け焦げるような熱量に押し潰されそうになったその時、横から伸びてきた小さな、けれど驚くほど硬く確かな手応えが、アレンの右腕の重い金属フレームをがっしりと支えた。
「――っ、ミラ……?」
アレンが血の滲む目で隣を見る。ミラはアレンの右腕の内部に複雑に組み込まれた巨大な引き金に自らの両手を強くかけ、正面の純白の虚無を真っ向から睨みつけたまま、静かに口を開いた。
「アレン」
「……なんだ」
「お前……何百回も、見てたんだろ」
「……」
ミラの身体が一瞬、微かに強張る。アレンの声は掠れていたが、不思議なほど冷徹に落ち着いていた。
「俺が世界OSに挑んで、そのたびに失敗して、無様に死ぬところを。お前はずっと、その特等席で見てたんだろ」
重苦しい沈黙が流れる。空で明滅を繰り返す数千の失敗ログの光が、ミラのガラスのような瞳に冷たく反射していた。やがてミラは視線を前に向けたまま、感情を押し殺した一言だけを返した。
「……見てた」
ミラの小さな唇が、微かに震える。
「何度も、何度もよ。あなたが灰になるのも、ただの肉塊になるのも、システムに溶かされて存在ごと抹消されるのも、全部その特等席で見届けてあげたわ」
「それでも、お前は俺を拾った」
「拾った」
「なんでだ。放っておけば、お前はただの安全な『記録者』のままでいられたはずだろ。わざわざこんなエラーデータの塊に関わる必要なんてなかったはずだ」
ミラの指先が、真鍮のトリガーに白くなるほど強く食い込んでいく。
「そんなの、こっちが聞きたいわよ……!」
ミラの声が、初めて堰を切ったように感情を孕んで震えた。
「何回やり直しても、あなたという男はバカみたいに同じところで立ち上がって、同じようにボロボロになって、エレノアのために死ぬのよ。止めようとしても無駄。絶望させようとしても無駄。そんな、とうに壊れてるジャンク品を、どうやって放っておけって言うのよ……!」
それは、何千回もアレンの死を一方的に見せられ続けてきた、もう一人の被害者の、魂の底からの叫びだった。ミラは安全な観客席にいたのではない。終わらない地獄をただ一人で記録し続けるという、孤独な監獄に閉じ込められていたのだ。
アレンはミラの横顔を見つめ、ふっと短く笑った。その顔には、いつもの傲岸不遜な、身の程知らずのジャンク屋の笑みが戻っていた。
「じゃあ、今度は一緒にやれ」
「は……?」
「失敗するなら、今度は一緒に失敗してやる。もうお前一人に、そんな退屈な『見届け役』なんかさせねえ」
「アレン、あなた何を言って――」
「俺の地獄の片棒を担げ、ミラ。お前が俺を拾ったんだ。だったら、最後まで付き合ってもらうぞ。――これが、俺たちの共犯者契約だ」
ミラは大きく目を見開いた。アレンの提示した言葉は救いでも何でもない。自分を安全圏から引きずり下ろし、世界の崩壊という地獄の当事者にするための、最悪の誘い文句だった。
けれどミラの胸の奥で、何千回もの退屈なループの中で完全に凍りついていた何かが、小気味よい音を立てて融解していく。
「……本当に、最悪の男ね、あなたは」
ミラが泣きそうな顔で笑う。
それなのに、その笑みはこれ以上なく不敵だった。
正式な当事者としてトリガーを握る両手に全体重をかけるようにさらに力を込めた。
「違う!」
ミラの声が空を切り裂く。
「その人たちは、諦めたんじゃない! 諦められなかったから、何千回も、何万回もこの世界に痕跡を残してるのよ……!」
――ッ!
アレンの脳髄に、弾けるような電流が走った。呪いが、反転する。ゴミとして捨てられたはずの、敗北していったアレンたちの絶望の声が、ミラのその一言によって一瞬にして消えない「執念の熾火」へと姿を変える。
『――もう一度だ』
『まだ終われない』
『……エレノアを、この手に返せ……!』
それは呪詛ではない。諦めきれずに世界へ刻みつけた、剥き出しの意志。数千人のアレンの歴史が、今、目の前の『一人のアレン』の右腕へと爆発的な勢いで収束し、超圧縮されていく。単なる過去データの統合ではない。失敗の歴史そのものが、ミラの言葉によって初めて救済された瞬間だった。
周囲の光が急激に退き、世界が暗転していく。無数の腕と執念を呑み込んだアレンの右腕は、巨大化して膨れ上がるどころか、逆に異様なほど小さく、静まり返っていった。世界から一切の音が消え去る。派手な光も余計なエフェクトも一切を削ぎ落とした、何千回分の執念を一本の芯に圧縮した「静寂の恐怖」がそこにあった。
掃除屋の無機質な眼窩が、処理不能な情報量を前にして、激しく明滅を繰り返す。
《理解不能》
《何故、停止しない》
《何故、諦めない》
システムが想定する「死=停止=諦め」という完璧な計算式が、目の前のバグには一切通用しない。自らの存在意義を揺るがされ、エラーログを吐き散らす神の執行人を、アレンは冷徹な眼差しで見下ろした。
「失敗したのは、俺じゃない」
「お前だ」
アレンは、超高密度に圧縮された真鍮の右腕を、掃除屋の胸のコアへとまっすぐに向けた。
「何千回世界をやり直して、何万回俺をゴミのように殺しても。お前らはただの一度も、俺のこの執念を諦めさせられなかった。……負けてたのは、最初からお前らの方だ、世界OS」
ミラの指がアレンの指のさらに上から、真鍮のトリガーを深く、深く引き絞る。
「いけ、アレン――!」
『共犯者のトリガー』が、今、完全に引き切られた。
轟音すら置き去りにして、超圧縮された右腕が、一本の不可視の「弾丸」となって放たれる。掃除屋が展開した、世界の法で守られた絶対不可侵の防壁など、そこには存在しないも同然だった。
一撃。文字通り、塵一つ、音一つ残さぬ完全な貫通。神の執行人は、自らに何が起きたのかを理解することすら許されず、一瞬で世界のデータから消滅した。
――。
大爆発も、勝利を称える大歓声もなかった。あるのは、掃除屋の核が消滅し、支配者を失った世界のシステムそのものが、ガタガタと嫌な音を立てて内側から軋み始める、不気味なほどの静けさだけだった。
ミラが額にかかった乱れた髪を小さく払い、どこか楽しそうに、呆れたように笑う。
「あーあ。とうとう壊しちゃった」
「文句あるか」
「ない」
ミラがアレンの隣に、今度は一歩も引かずにぴったりと並び立つ。
崩れた世界の向こう側に、まだ誰も知らない闇が口を開いていた。
その先に何があるのか。
世界OSですら、知らない。
(第31話:共犯者のトリガー ・ 完)
(次回「第32話:『世界の外側』」へ続く)




