第29話:バグの系譜
鉄錆の臭いと、電子の死骸が放つ焦げた悪臭。
世界OSの最深部から叩き落とされたアジトの床で、アレンは立ち上がれずにいた。
頭骨を直接叩き割られるような記憶の濁流が、ようやく収まりかけている。
真鍮の右腕は、激しい過負荷でパチパチと青白い火花を散らし、煤を上げている。
沈黙が、アジトを支配していた。
アレンは動けない。
すぐ目の前では、ミラが壁に深く身体をもたれかけ、細い肩を上下に揺らしていた。
アレンをサルベージするためにシステムをハッキングした代償は大きく、彼女の白い肌のあちこちで、冷酷なエラーコードの残滓が明滅している。
しばらく、誰も喋らなかった。
喋るための言葉を、世界の構造そのものが拒絶しているようだった。
やがて。
アレンはかすれた声を、喉の奥から絞り出した。
「……何回だ」
ミラは答えない。
ただ、赤い左目をわずかに伏せて、じっと自分の小さな爪先を見つめている。
「何回、繰り返した」
アレンの真鍮の指が、血が滲むほど強く床の鉄板を掻きむしった。
「俺がエレノアを思い出し、世界OSに挑み、そして……何回、ここに堕ちてきた」
ミラが、ゆっくりと顔を上げた。
その唇が、少しだけ、自嘲気味に笑う。
ひどく、ひどく疲れた顔で。
「覚えてないって、言ったでしょ」
「ミラ──」
「百回かもしれない。千回かもしれない。……途中から数えるの、やめちゃったんだから」
ミラは小さく息を吐いて、自らの華奢な指を、一つ、ずつ折り始めた。
「だって、全部同じだったし」
アレンの背筋が、凍りつく。
「全部……?」
「うん」
ミラは遠い目をしながら、淡々と指を折っていく。
「最初はエレノアを助けようとした」
「次は世界OSを壊そうとした」
「その次は、私を置いて一人で行った」
「一回だけ……エレノアを忘れたまま、ただのジャンク屋として普通に生きようとしたこともあった」
アレンの呼吸が、完全に止まる。
一度だって、そんなルートを歩んだ覚えはない。だが、ミラの細い指が折られるたびに、自分の知らない「自分の足跡」が、世界の裏側に刻まれているのを感じていた。
「でも最後は、全部同じ」
ミラは折った指を握りしめ、ぽつりと呟いた。
「アレンはまたエレノアを思い出して」
「また世界の心臓まで辿り着いて」
「……また、全部失った」
ミラの声は、底に無限の諦念を沈めていた。
アレンだけが忘れて、アレンだけが初恋のままで、何度もあの子のところへ這い上がっていく。その無謀な軌跡と、無惨な結末のすべてを、彼女はたった一人で、見届けてきたのだ。
「アレンが私を拾うんじゃない。アレンがそこに堕ちてくるから、私がそこで待ってるの」
「お前は……一体……」
アレンがその深淵に手を伸ばそうとした、その瞬間だった。
ガリ、と。
アジトの鉄扉の向こうで、世界の法則が物理的に歪むような、不快な電子音が鳴り響いた。
空気が一瞬で氷結し、アジトのあらゆるジャンク端末が、一斉に真っ赤な警告画面を吐き出し始める。
「──来た」
ミラの顔から、一瞬で血の気が引いた。
バキィッ!!!
強固なはずの隔壁が、まるで消しゴムで消されるように、光の粒子となって消失した。
そこに立っていたのは、人間の形を模した「虚無」だった。
顔のない、純白の ──ではなく、純白の輪郭。その全身から、未登録区域の空間そのものを強制デリートしていく冷酷なエラーコードが蒸発している。世界OS直属の排除プログラム──『掃除屋』。
だが、その輪郭のない頭部がアレンを無視し、真っ直ぐにミラを捉えた瞬間。
掃除屋の全身のノイズが、一層激しく跳ね上がった。
《──対象確認──》
機械的な、けれど世界の意志そのものの重みを持った合成音声が、アジトに響き渡る。
《Origin Error Detected(根本的エラーを検知)》
《Designation : MIRA(識別名:ミラ)》
《First Recorded Bug(最初のバグ)》
《完全消去を執行します》
最初のバグ──。
世界OSそのものが、ミラをこの世界のあらゆる不具合の「根源」として認識している。
「っ──アレン、走って!!!」
ミラが叫ぶと同時に、その小さな両手から、漆黒のバグコードが爆発的に吹き荒れた。掃除屋の放つ純白のデリート光線と、ミラの黒いノイズが衝突し、アジトの壁がポリゴン単位で弾け飛ぶ。
「くそがっ……!」
アレンは過負荷で悲鳴を上げる真鍮の腕を無理やり駆動させ、ミラの小さな身体を抱きかかえた。
背後から迫る、空間そのものを消去していく──純白の光。アレンはアジトの崩落した床の隙間──未登録区域のさらに下、光すら届かない「深淵」へと、迷わず身を投げた。
*
──どれほど落下しただろうか。
激しい衝撃と共に、アレンとミラは冷たい鉄の山の上へと転がった。
掃除屋の追撃は、まだ届いていない。どうやら、世界OSの監視の目が届かない、完全な「システムの死角(ゴミ捨て場)」に落ち延びたようだった。
「ミラ、大丈夫か……?」
アレンは身を起こし、抱きかかえていたミラをそっと床に下ろす。
ミラは小さく呼吸を乱しながらも、ただ静かに、アレンの後ろの闇を見つめていた。
「……アレン。上を見て」
ミラの声に導かれるように、アレンはジャンク屋としての本能で、右腕の真鍮指をパチパチと発光させ、周囲の闇を照らした。
淡い青白い光が、その「山」の正体を浮かび上がらせる。
「な……に、これ……」
アレンの喉から、乾いた悲鳴が漏れた。
そこにあったのは、山だった。
数え切れないほどの、金属の残骸。それも、ただのジャンクではない。
歯車が噛み合い、真鍮の細工が施され、激しい戦闘の末にボロボロに焼き切れた──自分と全く同じ、『真鍮の右腕』の山だった。
何百、何千という、自分の半身の屍が、そこに廃棄されていた。
震える手で、アレンはその中の一本に触れる。
その瞬間、焼き切れていたはずの残骸の指先が、微かにパチリと起動し、虚空にホログラムのログを出力した。
《LOOP No. 143》
《FAIL(失敗)》
息が詰まる。アレンは取り憑かれたように、別の、煤け分厚い傷が刻まれた腕に触れた。
《LOOP No. 267》
《FAIL(失敗)》
さらに別の、指先がすべて消し飛んだ腕。
《LOOP No. 589》
《FAIL(失敗)》
世界OSは、記憶を消していたのではない。
アレンは、そのたびに死んでいた。
そしてまた作られていた。
この腕の数だけ。
「ほらね」
真鍮の腕の山の中で、ミラが寂しそうに微笑んだ。
その赤い左目が、暗闇の中で、無数の失敗の歴史を憐れむように明滅する。
「私たちは、ずっと同じことを繰り返してる」
ミラは、立ち尽くすアレンの、新しい真鍮の右腕にそっと小さな手を重ねた。
「ねえ、アレン」
「今度は、何回目で終われるかな」
(第29話:バグの系譜 ・ 完)
(次回「第30話:最初のバグ」へ続く)




