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『星を紡ぐ右腕 〜追放された魔導技師、壊れた右腕で世界を繋ぐ〜』  作者: 鍼灸師いのぴー


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第27話:世界OSの心臓

下層へ、下層へ。

世界OSのタイムスタンプが逆行を止めた後も、アレンとミラは、奈落の裂け目に現れたデータストリームの垂直路をただひたすらに降り続けていた。


驚くべきは、その静寂だった。

これまで二人が這いつくばってきた「未登録区域」の、あのゴミゴミとしたジャンクデータの騒音、鉄錆の臭い、夜のないネオンの狂気が、嘘のように消滅していく。

下へ向かうほど、世界は急速にその色を失い──やがて、境界線のない、不気味なほどに静謐な『真っ白な虚空』へと行き着いた。


上も、下も、右も、左もない。

ただ、どこまでも冷徹な純白の空間。


「……ぁ……」


ミラはアレンのコートの裾を掴んだまま、一言も喋れなくなっていた。その小さな身体は、まるで極寒の地に放り出されたかのようにガタガタと震えている。


「ミラ、大丈夫か」

「……」


ミラは答えない。ただ、怯えきった赤い左目で、白い世界の『中心』を見つめていた。


そこに、ぽつんと浮かぶ、歪な立方体の空間があった。


周囲の白い虚空から隔離されるように、そこだけが別のタイムスタンプで固定されている。アレンは吸い寄せられるように、その空間へと歩みを進めた。

純白の境界線を跨ぎ、その空間に足を踏み入れた瞬間、アレンの息が止まった。


「ここは……」


世界OSの最深部、神の領域『A-001』。

そこに構築されていたのは、剥き出しの電子基盤でも、巨大なメインフレームでもなかった。


アレンがよく知っている──かつてエレノアと二人で暮らしていた、あの狭いアパートの一室だった。


安物の木目調のテーブル、少し歪んだパイプ椅子。使い古された二人の食器が、小さな流し台に並んでいる。壁に掛けられたカレンダーの文字も、脱ぎ捨てられた上着の質感も、すべてがポリゴンで精密に再現されていた。空気の中に、微かに当時の生活の匂いすら混じっている。

世界の中心にあるべきものが、ただの『二人の思い出』で満たされているという圧倒的な狂気と、切なさ。


底知れぬ違和感の中、アレンの視線が一箇所に釘付けになる。


「っ、エレノア……!?」


アレンの声が裏返った。

部屋の窓際、陽光のホログラムが優しく差し込む椅子に、あの日とまったく変わらない、白いワンピースを着たエレノアの後ろ姿があった。

艶やかな髪が、現実の風に揺れるように、静かに揺れている。


「エレノア、そこにいるのか……! エレノア!」


アレンは記憶を失って以来、初めてその名を叫び、すべてを忘れて手を伸ばした。

だが──。

あと一歩でその肩に手が届くという瞬間、エレノアの身体がパチパチと粗いグリッチを起こした。


「あ──」


触れることすらできなかった。

彼女の身体を構成していたポリゴンは一瞬で歪み、色彩を失い、ただの立体ログの残像ホログラムへと還元されていく。

最初から、そこには誰もいなかったのだ。


アレンは虚空を掴んだまま、呆然と立ち尽くした。

胸を掻きむしるような喪失感の中、彼は部屋のさらなる異常に気づく。

すべてがあの日のままだ。しかし、ただ一つだけ、現実には絶対にあり得ない決定的な異物がそこにあった。


寝室の奥。本来ならただの押し入れがあるはずの壁に、冷徹な金属製の扉が埋め込まれている。

扉の隙間から、ドクン、ドクンと、規則正しい生命の鼓動に似た重低音が響いていた。その不気味な振動が、床を通してアレンの足の裏にまで生々しく伝わってくる。


暗い扉の表面にだけ、不気味な赤黒いシステムメッセージが点滅していた。


《HEART CORE》


「……何だ、あれは」


アレンが呟き、その扉へ一歩近づいた。

その瞬間。

後ろにいたミラが、息を呑んで明確に一歩、後ずさった。


「……また、あの場所だ……」


ガタガタと歯の根を鳴らしながら、ミラが虚ろな声で呟く。


「嫌……嫌よ……!!」


未登録区域のどんな凄惨なバグを前にしても不敵に笑っていたあの少女が、初めて、本気で恐怖した。


そして、踵を返した。


一目散に。


アレンからではない。


床を震わせる、あの不気味な扉から。


その顔からは完全に血の気が引いていた。


アレンが扉──世界OSの心臓部へさらにもう一歩、近づいた。


その瞬間、彼の真鍮の右腕が激しく火花を散らし、システムとの『強制同期』を開始した。


ジジッ……ツ、ジジジジジッ……!!


部屋の中央、空中に新たなホログラムが起動する。

そこに映し出されたのは、エレノアの隣で、今のアレンからは想像もつかないほど穏やかに、幸せそうに笑っている『過去のアレン』の姿だった。


ホログラムの過去アレンは、ふと、未来の自分がいる方向を真っ直ぐに見据えた。

まるで、いつかここに辿り着く出来損ないの自分を、最初から予期していたかのように、静かに語りかけ始める。


『もし、未来の俺がここへ来ているなら──俺たちの計画は失敗したんだな』


ノイズ混じりの、けれど紛れもない自分自身の声。


『エレノアは救えた。世界も、彼女も、生きている』

『だが、お前はここへ来てはいけなかった。それは──』


──ジジッ、ジジジジジジジッ!!!


「っ!? 答えろ、なぜだ!! 俺はここで何をした!!」


最も重要な理由の直前で、ログが激しいバグを起こし、音声が致命的に破損する。

アレンは真鍮の腕を突き出したが、ログの沈黙と入れ替わるように、彼の視界の隅に最悪のアラートが強制出力され始めた。


《OWNER LOGIN ACCEPTED》

《WORLD STABILITY : 99.99%》


パチ、と部屋の隅のポリゴンが剥がれ、白い虚空へと溶けた。


《WORLD STABILITY : 99.90%》


「何が起きている……! 数字が、減っている……!?」


《WORLD STABILITY : 99.75%》


加速していく。世界の死が、誰にも止められない速度で刻まれていく。

背後で、あの扉から距離を取ろうとするミラの震える声が響く。


「お前がそこに触れたからよ……! お前がそこへ来たら、世界が……世界がまた壊れるのよ……っ!」


《WORLD STABILITY : 99.32%》


空間が激しく崩壊していく絶望の中、ノイズの海に沈んでいた過去アレンのログが、一瞬だけ奇跡的に復旧し、最後の音声を出力した。


『逃げろ』


『エレノアは──』


激しいバグノイズ。


『世界そのものだ』


その一言を最後に、アレンの視界は激しいバグノイズに埋め尽くされた。

白い虚空が激しく揺れ、思い出の部屋のポリゴンが砕け、世界の認識そのものが致命的にひび割れていく。


そして──。


世界OSは、再び。


「アレン」の削除を開始した。




(第27話:世界OSの心臓 ・ 完)

(次回「第28話:世界の終わりの笑顔」へ続く)

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