第26話:最後の使用者
一千の時計が放つ、鼓膜を抉るような金属音。
それは時間を刻む音ではない。この空間に刻まれた『すべての記録』が、超高速で逆行を始めた轟音だった。
「あ、あ、あああぁぁぁ……ッ!!」
ミラが頭を掻きむしり、奈落の床に転がって短い悲鳴を上げた。
その赤い左目が、かつてないほどの速度で明滅し、バグの光が彼女の顔半分を不気味に照らし出す。
「ミラ!? しっかりしろ、何が起きて──」
「違う……違うの、アレン! 私は、ここを知ってる! この音を、この老人の顔を、私は知っている……っ!!」
ガチガチと歯を鳴らしながら、ミラは狂ったように首を振った。
「知らない……知らないはずなのに! 私はこの周回が初めてのはずなのに、なんで、なんで頭の中に、私が死ぬ記録が流れてくるのよぉ!?」
ミラの脳内に流入しているのは、過去の周回で世界OSにデリートされた「彼女自身の残骸」のログ。
その狂乱に呼応するように、工房の空間そのものが変異していく。
壁のひび割れが瞬く間に塞がり、床の埃が虚空へと吸い込まれ、数十年の歳月が逆転していく。職人の机に置かれた錆びついた工具が、一瞬で新品の輝きを取り戻したかと思えば、次の瞬間には『未製造』の概念へと還元され、ポリゴンの塵となって消滅した。
時間が戻っているのではない。
世界OSのタイムスタンプが、超高速で巻き戻されているのだ。
「く、ガあぁぁッ……!!」
アレンが絶叫した。
真鍮の右腕が、逆行する世界のログと異常同期を起こし、骨をきしませながら暴走を始めている。
駆動音はもはや爆音と化し、アレンの視界の隅に、エラーログの奔流が強制出力され始めた。
《ERROR : ROUTE_AUTHORITY_ACCEPTED》
《USER : ALLEN》
《──WORLD_REWRITE : EXECUTED》
《TARGET : ELEANOR》
《PROTECT_PRIORITY : MAXIMUM》
《──DELETE_USER : ALLEN》
(……世界改変……実行……?)
(ユーザー、アレンを、消去……?)
文字が脳髄に焼き付くたび、アレンの精神が激しく自壊していく。
エレノアを守るために、世界を書き換えた?
局所的なバグの書き換えではない。世界そのものの再構築。未登録区域を彷徨うだけのバグ。その自分が、かつて世界そのものを書いた存在だったというのか。そして、その代償として、自分という存在をシステムからデリートしたというのか。
嵐のような光の渦の中、時守の老人は、ただ一人、髪一筋すら揺らすことなく淡々と佇んでいた。
その真鍮の義眼だけが、冷徹にアレンを見据えている。
「俺は……俺は過去に何をした……っ!」
アレンは右腕を抑えつけ、血を吐くような声で時守を睨みつけた。
「答えろ、時守! 俺は何者だ!」
「聞きたいのか」
老人は、歪んだ三日月の笑みを浮かべたまま、静かに返した。
「答えろ!!」
「ならば、質問を変えろ」
老人の声が、一瞬で一千の時計の轟音を圧し潰した。
「なぜお前は、もう一度やろうとしている?」
「……何……?」
アレンの思考が、恐怖で凝固する。
「過去を悔いる暇があるなら、未来を疑え」
老人は、作業机から一本の歪な金属片を拾い上げた。それは物理的な鍵の形をしてすらおらず、ただ不気味な黒いノイズを放ち続ける、剥き出しのバグデータそのものだった。
「それが、お前が世界に遺した『管理者の鍵』だ。正確には──お前がまたここへ来て、これを受け取るという記録にしておいたものだ」
老人が、その黒いノイズをアレンの真鍮の腕へと突き付ける。
「受け取れ。これは鍵ではない」
「何だと」
老人は、愉悦に震えるように嗤った。
「お前の遺書だ」
カチ、
と、一度だけ、全ての時計が正方向に時を刻んだ。
直後、爆発的な閃光。
気がつけば、一千の時計も、時守の姿も消え去っていた。
そこにあったのは、ただの崩落したビルの瓦礫。アレンは激しい呼吸のまま、己の真鍮の右腕を見つめていた。
勝手にハッキングコードを受け入れた右腕のモニターが、赤黒い文字を静かに吐き出し始める。
《ACCESS_POINT : FOUND》
《COORDINATE : A-001》
世界OSの最深部。
すべてを管理する、神の領域の座標。
そして──。
《──OWNER : ALLEN》
アレンの眼球が、恐怖に大きく見開かれる。
「……オーナー……俺……?」
「……やめて」
地を這うような掠れた声が、アレンの鼓膜を叩いた。
見れば、床にへたり込んだミラが、自身の身体を狂ったように抱きしめたまま、その顔から完全に血の気を引かせていた。
「ミラ……?」
「……やめて。お願いだからアレン、その場所だけは行っちゃダメ……っ!」
「なぜだ。ここにエレノアが、管理者の権限があるはず──」
ミラはガタガタと顎を震わせ、絶望に染まった目でアレンを見上げた。
「私は知ってる……思い出したのよ、さっきの渦の中で──!」
ミラの左目から、赤いノイズが涙のように零れ落ちた。
その赤黒いノイズの雫が床のポリゴンをパチパチと溶かしていく中、彼女の細い指先が、アレンの真鍮の右腕を、血が滲むほどの力で指差す。
「私はそこで、お前を見た」
「どこでだ」
ミラの顔が、これ以上ないほどの恐怖に歪む。
「世界の中心で」
「お前は、一人じゃなかった」
「エレノアがいた」
「そしてお前は──」
ミラの声が、激しく震える。
「そんな顔、今まで一度もしたことがないくらい……」
「幸せそうに笑ってた」
(第26話:最後の使用者 ・ 完)
(次回「第27話:世界OSの心臓」へ続く)




