第25話:管理者の鍵
アレンの右腕が放った文字ログの奔流。その末尾に、赤黒いノイズと共に焼き付いたのは、ただ一行の冷徹な文字列だった。
《TARGET_COORDINATE : E-099》
「……嘘。嘘でしょ。なんでその右腕が、『あの領域』の波形を拾えるわけ……?」
それを見たミラが、いつも耽えていた薄気味悪い余裕を完全に消し去り、息を呑んでいた。
「知っているのか、ミラ。ここはどこだ」
アレンの問い詰める声に、ミラはあからさまに視線を彷徨わせ、珍しく声を震わせる。
「あそこには近付いちゃダメ。未登録区域のバグ(私たち)は、いつか世界OSに消されるのを待つだけのゴミだけど……あいつだけは違う。世界OSに何百回消去されても、何百回もまったく同じ姿で再起動してくる異常存在。システムが完全排除を諦めた、世界のバグの終着点よ」
移動を始めたアレンとミラの周囲は、灰色のポリゴンすら歪み、空間そのものが時化したように文字化けを起こしていた。
すれ違う、影のような未登録区域の住人たちが、アレンの暴走する右腕の駆動音を聴き、怯えたように道を開けて囁き合う。
『おい……あいつ、あの“時守”のところに行く気か?』
『やめろ、目を合わせなさんな。中身を巻き戻されるぞ』
『名前を聞かれても答えるな。存在のタイムスタンプを書き換えられる……』
住人たちすら怪物扱いするその噂に、ミラが苦々しく補足する。
「あいつは未登録区域のさらに底で、ずっと『止まった時間』を弄んでるのさ」
奈落の底へ進むほどに、空気は粘度を増していくようだった。突如、ミラがピタリと足を止めた。その身体が、かすかに震えている。
「……アレン、やっぱり戻ろう。あいつは駄目だ。理屈が通じない」
「ここまで来て戻れるか。エレノアの手がかりが──」
「違うのよ!」
ミラがアレンの胸ぐらを掴み、声を荒らげた。その赤い左目が激しく明滅している。
「あいつの領域に入った瞬間、私たちの『現在のタイムスタンプ』が狂わされる! 殺されるよりタチが悪いの! 私が私でなくなるかもしれない恐怖が、あんたに分かる!?」
ミラが本気で引き返そうとアレンを引っ張った、その瞬間だった。
まだ影も形もない奈落の闇の奥から、低く、掠れた老人の声が直接鼓膜に響いた。
「二十八秒、遅かったな」
ギクッ、とミラの身体が硬直する。
「……何?」
アレンが声を潜めると、闇の向こうから、衣擦れの音と共に言葉が返ってくる。
「予定よりだ。まあいい、扉は開いている。入れ」
促されるように辿り着いたのは、崩落したビルが重なり合ってできた奈落の片隅。不自然なほど静かに佇む古びた工房だった。木製の重い扉は、言われた通り最初から数センチだけ隙間を開けて静止していた。
一歩足を踏み入れると、無数の、本当に無数の時計が壁一面を隙間なく埋め尽くしていた。柱時計、懐中時計、砂時計。だが、そのどれ一つとして動いていない。針はすべて、狂ったようにバラバラの時間を指したまま、ピきりと冷たく静止している。
老人の古びた作業机の上には、一冊の分厚い帳面が置かれていた。そこには今日の日付と共に──『アレン来訪』とだけ、乾いた黒いインクで既に記されていた。
その時だった。アレンの真鍮の右腕が、工房の空気に触れた瞬間──
カチ。
──世界が、止まった。
オイルの臭いも、文字化けしたノイズも、自分たちの呼吸すらも凍りついたかのような、絶対的な静寂。
次の瞬間。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ──。
壁の一千の時計が一斉に、不気味な重奏となって一斉に時を刻み始める。
ミラが顔を青ざめさせ、アレンの腕を狂ったように掴んだ。
「……やめろ。そんなこと、今まで一度もなかった! 出るよアレン、今すぐ!」
その中央、オイルと鉄の匂いが立ち込める作業机で、一本の古びたピンセットを握った老人が、アレンたちを振り返ることもなく静かに声を漏らした。
「……そうか」
老人はピンセットを置き、誰に言うでもなく呟く。
「ようやく見つけたか、アレン」
.
アレンは息を呑み、全身の血が引いていくのを感じた。まだ、名乗ってすらいない。
「……なぜ、俺の名前を知っている」
老人は、ゆっくりと振り返る。その瞳は人間のそれではなく、精密な真鍮の歯車が複雑に噛み合って回転する、奇怪な義眼だった。
「知らん」
老人は淡々と答えた。
「今、作った」
「作った……? 何を言っている。俺を知っているから、その名前を──」
「いや。お前さんなんか知らん」
言葉の矛盾にアレンが混乱する中、時守の義眼の歯車が、ガチ、ガチ、と音を立ててミラの顔へと向けられた。老人が、わずかに目を細める。
「左目は三回目だな」
ミラが、息をすることすら忘れたように硬直した。
「……何? 何を言って──」
「前回は、右だった」
「ひっ……!」
ミラが短い悲鳴を上げて一歩下がった。彼女の左目のバグは、世界OSに消され、再起動するたびに変異してきた歴史だ。それを、この老人は過去の周回ごと見通している。
老人の時計仕掛けの瞳が、再びガチ、ガチと音を立てて、今度はアレンの真鍮の右腕に焦点は合わせる。その瞬間、老人の顔に深い歪みが生じた。
「……だが、その右腕は知っている。まだ、動いていたのだな」
「何だって? この腕がどうした!」
「最後にその腕の爆音を聴いたのは──世界が、一つ前だった時だ」
世界が、一つ前。それは世界OSがリセットをかける前の、歴史の改ざん。
困惑し、圧倒されるアレンに、老人は淡々と、しかし冷徹にシステムの本質を告げる。
「ルート権限は奪うものじゃない。思い出すものだ」
「……何? 僕はエレノアを取り戻すために、管理者の権限をハックしてでも──」
「お前は管理者になろうとしている。だが、妙だな。管理者がお前を忘れているんじゃない」
老人の義眼の歯車が、一段と冷たく噛み合う。
「何が、違うんだ」
「忘れたなら記録は残る。消したなら傷跡が残る。それがこの世界OSの絶対的な仕様だ。だが、お前にはそれすら無い。管理者の記録に、お前が存在した痕跡そのものが無いんだ。──まるで最初から、存在してはいけなかったみたいにな」
存在そのものの否定。アレンの背筋を、見たこともないエラーログのような冷たい汗が伝う。
老人は、アレンの激しく明滅する右腕を静かに指差した。
「管理者の鍵を探しているのだろう?」
「……知っているのか」
「もちろんだとも」
老人は、そこで初めて、口元を三日月のように歪めて不気味に笑った。
「その鍵を作ったのは、私だからな。──正確には、そうなった、という記録にした」
沈黙が、重く、息が詰まるほどに工房を支配する。
外の文字化けした風の音さえ消え去った世界で、老人が歌うように静かに続けた。
「そして──最後にそれを使ったのも、お前だ」
.
アレンの思考が、完全に凍りついた。
「……そんなはずがない! 俺は、何も──そんな記憶、どこにも──」
「そうだろうな。お前は覚えていない」
「だから消されたんだ」
アレンが、激しい拒絶に抗うように、強く顔を上げた。
「誰にだ……! 誰が俺を消したっていうんだ!」
老人は、愉悦に震えるように嗤った。
「決まっている。──お前自身にな」
息を呑むアレンを見つめ、老人の三日月の笑みがさらに深く裂ける。
「安心しろ」
老人は、楽しげに囁いた。
「お前はもう一度、同じことをする」
老人の義眼の歯車が、火花を散らすような速度で逆回転を始める。
直後、老人の背後で、壁を埋め尽くした一千の時計の針が、鼓膜を破らんばかりの凄まじい金属音を立てて、一斉に逆回転を始めた──。
(第25話:管理者の鍵 ・ 完)
(次回「第26話:最後の使用者」へ続く)




