第24話:削除済みの記憶
「触るな。現世のオブジェクト(正規データ)じゃない。そいつは凝縮された『バグの塊』だ。生身で触れば、お前の存在整合性は一瞬で消し飛ぶよ」
塔へ伸ばしたアレンの手を、ミラの警告が鋭く止める。
アレンは息を呑み、寸前で指を止めた。確かに、黒い塔の表面を流れる文字列からは、鼓膜を直接削るような、狂った電子ノイズが放射されている。
「……にいちゃん、やめときな」
背後から、掠れた声がした。
振り返ると、衣服の裾から文字ログのノイズを零している、あの影のような住人の一人が、虚ろな目でアレンを見ていた。
「その『記憶の墓標』に触れた奴らはみんな、中身を世界に吸い尽くされて、ただの抜け殻になっちまった。俺たちみたいなゴミクズは、大人しく消えるのを待つのが、一番痛まないのさ……」
諦めに満ちた警告。だが、アレンの足は引かなかった。
「見てるだけしかできないのか……っ! エレノアがここにいるかもしれないのに!」
「お前、さっき私の話を聞いてた?」
ミラはアレンの焦燥を冷たくあしらうように息を吐き、自分のバグった左目を指差した。
「正規の触り方をするから弾かれる。お前はもうデバッガー(修復者)じゃない。世界の不具合をハックする『バグの住人』だ。──右腕の周波数を、そのノイズに合わせなよ」
周波数を、合わせる。
アレンは自分の真鍮の右腕を見つめた。かつて世界のエラーを感知し、修復するために使っていた機能。その出力を反転させ、あえて目の前の「破壊されたログ」の不規則なリズムと同調させる。
ジジ……ジジジジジッ!
右腕の歯車が激しく逆回転し、アレンの視界が真っ赤なエラーログで染まる。
だが、存在整合性の減少は止まっていた。世界OSの防衛システムを騙し、自分自身を一時的な『バグデータ』へと偽装したのだ。
「いける……!」
アレンは意を決し、真鍮の指先を《ELEANOR》の文字列へと突き立てた。
カチリ、と脳内で何かが噛み合う音がした。
次の瞬間、アレンの意識は、猛烈な速度で漆黒のデータストリームの底へと引きずり落とされていた。
──世界が、反転する。
『あはは! 見てよアレン、この花、すごく変な形!』
突如、脳内に直接流れ込んできたのは、眩しいほどの光と、懐かしい少女の声だった。
どこかの瑞々しい草原。風が草波を揺らし、その中心で、白いワンピースを着た金髪の少女──エレノアが、一輪の青い花を手に持って、悪戯っぽく笑っていた。
世界から消し去られた、アレンのすべてだった少女の姿。
「エレノア……!」
アレンは叫び、彼女の元へ駆け寄ろうとする。
しかし、その記憶の映像は、ひどく不安定だった。エレノアの身体の輪郭が、時折テレビの砂嵐のようにバリバリと激しくブレ、モザイク状に崩れる。世界OSによって「削除」されたデータを、無理やり繋ぎ合わせているのだ。
夕暮れの街、雨の日の教会。時系列を無視して飛び交う記憶の断片。
捨てられたログの海で、壊れた記憶だけがパッチワークのように踊っている。
時系列も意味も失った記憶の断片が、ただアレンの感情をズタズタに引き裂くように流れ込む。
そして──あの、世界が修復される直前の、光に包まれた終わりの瞬間。
エレノアは泣いていた。いや、泣きながら、必死に笑おうとしていた。
彼女の身体が足元から光の粒子になって崩壊していく中、彼女はアレンの胸に飛び込み、その耳元で何かを囁いた。
『アレン、私はね──』
「え……?」
一番肝心な、彼女の言葉の核心。
その瞬間、世界が、ガラスが割れるような凄まじい音を立てて静止した。
エレノアの顔が、全身が、真っ黒な文字ログの羅列によって乱暴に塗りつぶされていく。
《ERROR:DATA CORRUPTED》
《該当データは、世界OSにより永久削除されています》
「待て! 隠すな! 聞こえないんだ……! エレノア、なんて言ったんだ!」
アレンは手を伸ばすが、彼女の記憶の断片は、無慈悲なノイズに侵食されて完全に霧散した。
くそっ、とアレンは歯を食いしばる。世界OSは、どこまで彼らから奪えば気が済むのか。
だが、その暗黒の記憶の底で、アレンは思い出した。
このエレノアのデータのすぐ上に、自分自身のものと思われるログがあったはずだ。
暗闇の中に目を凝らす。あった。
バグの渦のさらに深部。激しく明滅する、自分を指し示す呪われたコード。
《USER-ID:ERROR》
《NAME:UNKNOWN》
《STATUS:MANUFACTURED……》
「僕は……何なんだ。誰が、何のために僕を作った……!」
アレンは執念だけで、その冷たい文字列へと手を伸ばし、鷲掴みにした。その答えさえ分かれば、世界OSの裏をかき、エレノアを完全にサルベージする方法も見つかるかもしれない。
答えを、教えろ──!
その瞬間。
黒い塔の最深部から、今までのノイズとは比較にならない、凍りつくような冷徹な波動が突き上げてきた。
アレンの脳を、世界そのものの『拒絶』が襲う。
視界を埋め尽くしたのは、血の涙のような、圧倒的な黒と赤の文字列だった。
《ACCESS DENIED》
《ACCESS DENIED》
《ERROR:閲覧権限がありません》
《ROOT AUTHORITY REQUIRED》
《最上位:ルート権限が必要です》
「が、あ……っ!?」
凄まじいシステムからの拒絶を受け、アレンの意識は漆黒の底から強引に現実に弾き出された。
「──ハッ、ゲホッ、ゴホッ……!」
未登録区域の冷たい灰色のポリゴンの床に、アレンは四つん這いになって激しく咳き込んだ。
床に飛び散ったのは、どす黒い血液──ではなかった。
アレンの口から溢れ出たのは、バグった電子回路の液体のような、文字化けした赤黒い文字列の羅列だった。それがポリゴンの床に触れ、ジジ、と音を立てて消えていく。自分自身の中身まで、ただのデータに過ぎないのだと突きつけられる、グロテスクな現実。
真鍮の右腕からは、パチパチと不穏な火花が散っている。
「……嘘でしょ」
ミラの、どこか引きつった声が降ってきた。
見上げれば、常に感情を隠していた彼女の不気味な赤い左目が、初めて驚愕に僅かに見開かれていた。床に散らばる異質なバグログと、アレンの顔を、交互に凝視している。
「世界OSの最深部ログに直接アクセスして……コアが焼け焦げずに、まだ意識を保ってるわけ……?」
アレンは荒い呼吸のまま、口元のバグログを拭い、黒い塔を見上げた。
エレノアの記憶は、確かにそこにあった。だが、壊されていた。
そして、自分の正体のログ。あれを閲覧するには、世界OSの頂点──『ルート権限』が必要だという。
絶対的な世界の壁。しかし、アレンの胸の中で燃え上がる世界への敵意に呼応するように、パチパチと火花を散らす真鍮の右腕が、アレンの意志を無視して唐突に狂ったような駆動音を鳴り響かせた。
その瞬間。
右腕の奥深くで、今まで一度も聞いたことのない機構が起動する音が鳴った。
ガコン。
──ガコン。
重々しい二段階の機械音が響き、視界の端で赤黒いシステムログが、猛烈な速度でオートランを始める。
《ROOT AUTHORITY SEARCHING……》
《検索主体:UNKNOWN》
《検索主体:照合失敗》
《警告:該当ユーザーはシステムに存在しません》
《ルート権限取得手段:強制自動検索開始》
アレンは、激しく明滅する右腕を強く、壊れるほどに握りしめた。
アレンの意志とは無関係に、しかし彼の怒りにシンクロして暴走を始めた、この右腕の「隠された機能」。
「……上等だ」
誰が作ったのかなんて関係ない。自分を誰とも認めない世界なら、こちらからシステムを書き換えるまでだ。
奪われたすべてを取り戻すため、少年は世界の最高権限へ、その牙を剥いた。
(第24話:削除済みの記憶 ・ 完)
(次回「第25話:管理者の鍵」へ続く)




