第23話:未登録区域
「お前、さ。──自分が『人間』だと思ってたの?」
少女の声は、どこまでも軽かった。
路地裏の泥溜まりに蹴り落とされるような衝撃が、アレンの全身を駆け巡る。
「……人間、じゃない……? 僕が……?」
「そう。お前のその真鍮の右腕も、空白だらけの記憶も、システムが『そう設定した』だけのデータ。人間だなんて、誰も保証してないよ」
ミラは踵を返し、薄暗い路地の奥へと歩き出す。
「立ち止まってたら本当にゼロになって消えるよ。お前みたいな『規格外』が生き延びられる場所に案内してあげる。……来なよ」
アレンは呆然としたまま、千切れそうな思考を必死に繋ぎ止め、彼女の背中を追った。
頼れるものは、もう何一つない。
王都の、さらに奥の裏路地。
普段なら決して足を踏み入れないような薄暗い境界を越えた瞬間、周囲の景色が、少しずつ、しかし決定的に「狂い」始めた。
カツン、カツンと響いていた石畳の足音が、唐突に消える。
見下ろせば、地面の石畳が途中からスパリと不自然に途切れており、その先はのっぺりとした灰色の立体がどこまでも広がっていた。
見上げる空は、まるでガラスにヒビが入ったように四角くパッチワーク状に欠け、その隙間から「虚無」の黒が覗いている。
大通りから聞こえていた人々の喧騒は消え、代わりに、ジジ……ジジ……と、耳鳴りのような電子ノイズが鼓膜を刺した。
ふと見れば、路地の隅で、一人の商人の格好をした男が、同じお辞儀の動作を、ガクガクと壊れた人形のように永遠に繰り返している。その顔には、目も鼻も口もなかった。
「……ここは、何なんだ」
アレンの喉から、掠れた声が出る。
「未登録区域」
ミラはリンゴの芯を、虚無の隙間へと蹴り落とした。芯は落ちていく途中で、文字通りかき消えるように消滅した。
「世界OSが管理するのをやめた場所。バグの修正跡、切り捨てられた仕様、不要になった過去のオブジェクト……要するに、世界のゴミ箱だよ」
世界のゴミ箱。
アレンはその言葉の本当の意味を、路地のあちこちにうずくまる「それら」を見た瞬間に理解し、息を呑んだ。
壁際に座り込んでいるのは、肘から先が「存在整合性」の文字列で侵食され、チカチカと明滅している少女。
その奥にいるのは、顔の半分がテクスチャの剥がれた灰色の粘土のようになっている老人。
衣服の裾から、ぼやけた文字ログのノイズを零しながら歩く、影のような住人たち。
全員が、世界から不適合者の烙印を押され、排除された者たちだった。
彼らの虚ろな瞳が、アレンの真鍮の右腕を、そして脳内で赤く明滅する《ERROR》のログを、同類を認めるように静かに見つめている。
「お前は勘違いしてる」
ミラがアレンを振り返り、その冷たい赤い左目でアレンを射抜いた。
「存在整合性が下がるのは、お前が死にかけてるからじゃない。世界OSが、お前というイレギュラーを『最初から存在しなかったこと』に修正しようとしてるからだ」
「修正……?」
「そう。消されるんじゃない。お前が生きた痕跡、お前が誰かと交わした言葉、そのすべてを最初から白紙に戻して、綺麗にデリートする。それが世界の防衛システム。……嫌なら、存在整合性を取り戻すしかない」
「どうやって……! 記憶も名前も偽物なのに、どうやって自分を証明すればいい!」
アレンが叫ぶ。アイデンティティを奪われた少年の、悲痛な叫びがゴミ箱の街に響く。
ミラは、アレンの真鍮の義手を冷たい指先で強く掴んだ。
「自分が何者なのか、そのコアのデータを探し出すんだよ。アレン。誰かに与えられた役割なんて関係ない。これからは、お前自身を取り戻すための戦いだ」
世界のためではない。自分を取り戻す。
アレンの胸の中に、新しくどす黒い執念の火が灯る。
「でも、整合性の数字は減り続けてる。僕が世界に触れたら、余計に摩耗するんだろ……?」
「現世の人間やオブジェクト(正規データ)には触るな。──だけど、バグには触れ」
ミラは不敵に笑った。
「お前はもう、正規のユーザーじゃない。だったら、世界の不具合の隙間なら、お前は世界のルールを無視して生きられる」
ミラの言う通りだった。アレンはかつて、世界のバグを直すデバッガーだった。
仕様の穴、修正漏れのコード、読み込みのバグ──その知識があるアレンなら、このバグだらけの裏世界では、壁をすり抜け、削除済みのアイテムを拾い、機能していない転送ゲートを無理やり起動することすらできる。
世界OSの裏側をハッキングしながら旅する、日陰者の生存戦略。
「……行くよ。お前に、これを見せておきたかったんだ」
ミラが足を止めたのは、未登録区域の最奥だった。
そこには、巨大な黒い墓標のような、データの塔がそびえ立っていた。文字化けしたノイズの羅列が、滝のように表面を流れ落ちている。
その塔の表面には、かつて世界に存在し、そして世界から完全に削除された「何か」の名前が、無数に刻み込まれていた。
アレンは導かれるように、その黒い塔へと歩み寄る。
流れる文字列の中に、見知った、けれど、頭が割れるほど愛おしい、一つのコードが焼き付いていた。
《ELEANOR》
「な……っ!?」
アレンの息が止まる。
エレノア。世界が修復された時、その歴史から綺麗さっぱり消し去られた、あの少女の名前。
「エレノア……ここに、いるのか……?」
アレンの手が、震えながらその文字へと伸びる。
だが、その時──《ELEANOR》のコードの数行上に、一瞬だけ、激しくバグりながら明滅する「別のデータ行」が視界に飛び込んできた。
《USER-ID:ERROR》
《NAME:UNKNOWN》
《STATUS:MANUFACTURED……》
「──っ!?」
アレンは思わず目を凝らした。そこに刻まれている文字列の並びは、自分の右腕が弾き出すエラーログの形式と、完全に「一致」していた。
それが何を意味するのかを理解しようとした瞬間、ノイズが走り、そのログは不自然に崩れて消えてしまった。
自分のデータが、エレノアと同じ「削除されたゴミ箱」の塔に、最初から刻まれている──。
隣で、ミラがリンゴの芯を弄びながら、残酷で、しかし唯一の希望に満ちた笑みを浮かべた。
「だから言ったでしょ? ──世界はまだ、終わってないってさ」
(第23話:未登録区域 ・ 完)
(次回「第24話:削除済みの記憶」へ続く)




