第21話:選択
闇の上空に、それはあった。
上下左右の概念すら失われた漆黒の深淵。その遥か高みから、アレンとエレノアを冷徹に見下ろす「何か」が存在していた。
それは巨大な『眼球』のようでもあり、蠢く幾何学模様のノイズの塊のようでもあった。世界OSのシステムログすら、その存在の周辺では恐怖に歪むように激しく明滅している。
《UNKNOWN OBSERVER DETECTED》
《権限照合中……》
……
……
……
《権限確認:ROOT AUTHORITY》
最高管理者。
世界OSという絶対のシステムすら、その上位に君臨するこの『観測者』の、一端末に過ぎない。その残酷な世界の構造(仕様)が、無機質なログによって証明されていた。
『観測者』の視線が、まずはエレノアへと向けられる。
《削除対象確認》
《対象:ELEANOR》
次いで、その少女を背に庇うように立つ、少年の姿を捉えた。
少年の真鍮の右腕は、狂ったようにエラーを吐き出し続けている。
《保護行動を確認》
《競合を検出》
《──これより、対象の役割変更を実行します》
《DEBUGGER》
↓
《SYSTEM ERROR》
真鍮の右腕に、血のような赤文字が刻まれる。
世界の正解を導くはずだった「修復者」は、その瞬間、世界を脅かす最大の「不具合」へと、公式に分類を書き換えられた。
「逃げて、アレン……!」
エレノアが、アレンの背中にすがりつきながら悲痛に叫んだ。
「もういいの。私はいいから……。ここで私を選んだら、世界全部があなたの敵になる!」
世界そのものから拒絶される恐怖。
神に等きシステムから、害悪として排除される絶望。
普通の人間に耐えられるはずのない圧力がアレンにのしかかる。
しかし、アレンは思い出せない頭で、それでも確かに、自分の意志で、真鍮の拳を強く握りしめた。
「それでも、嫌だ」
それが、少年の紡いだ『選択』だった。
たとえ世界を敵に回そうとも、この胸に宿る「消しきれなかった感情」だけは、絶対に裏切らない。
その選択を呼び水にするように、上空の『観測者』が、冷徹にそのシステムを行使した。
《緊急再起動を開始します》
《世界構造を復元中……》
《記憶整合処理──開始》
《因果チェーンの再接続──実行》
バグだらけの白い空間が、激しい光と共に爆砕した。
バラバラに破損していたソースコードが、超高速でパッチを当てられ、元の形へと組み直されていく。
反転していた重力が元に戻る。
剥がれ落ちていた建物のテクスチャが、一瞬で石造りの街並みへと描き直される。
セピア色の文字列に変わっていた男の腕が、瑞々しい肉体へと巻き戻る。
王都に、空が戻った。
太陽の光が降り注ぎ、風が吹き抜け、教会の鐘の音が、高らかに響き渡る。
世界は、完璧に救われたのだ。
しかし、その奇跡の演算の最後尾に、あまりにも残酷な一行が付け足されていた。
《再起動条件:異常因子の隔離》
《対象──アレン》
「──おい、嘘だろ」
アレンは、王都の賑やかな広場に立ち尽くしていた。
人々は笑顔で行き交い、何事もなかったかのように平和な日常を謳歌している。
アレンは、近くにいた見知らぬ兵士の肩を掴んだ。
「助かった……! 助かったんだね! みんな無事んだ!」
しかし、兵士は不審そうにアレンの手を払いのけた。その瞳には、親しみも敵意もなく、ただ純粋な困惑だけがあった。
「……えっと。君、誰?」
「え……?」
アレンは息を呑み、慌てて市場へと駆け出した。顔馴染みの店主たちに必死に声をかける。
「アレンだよ! ほら、いつも右腕の修理をしてた、アレンだ!」
「アレン? 聞かない名前だな。坊主、うちの常連かい?」
誰も、彼を知らない。
共に戦った仲間の元へ走っても、結果は同じだった。向けられるのは、見知らぬ不審者を見る冷たい視線だけ。
世界は修復された。
だが、アレンという存在のデータだけが、人々の記憶からも、世界の因果からも、完全に『隔離』されていた。
広場の片隅で、アレンは膝をついた。
自分の真鍮の右腕を見つめる。それはもう、修復の光を放つことはない。ただの物言わぬ機械の塊だ。
その時、沈黙していたはずの真鍮の表面に、かすかな電子ノイズと共に、最後の一刺しのような無機質な文字列が明滅した。
《ユーザー認証失敗》
《存在データが見つかりません》
他人から忘れられただけではない。
世界そのものが、彼の存在を「ないもの」と判定している。
「僕は……」
ぽつり、と。
誰にも届かない震える声が、陽光溢れる王都に消えていく。
「僕は……本当に存在していたんだよね?」
世界から切り離され、幽霊のようになってしまった少年が、己の存在証明を見失いかけた、その時だった。
「それを調べるのが、あんたの次の仕事でしょ」
賑やかな通りのすぐ脇。薄暗い路地裏の影から、場違いなほど軽薄で、けれど妙に理知的な少女の声が響いた。
アレンが弾かれたように振り向く。
そこに、一人の少女が壁に背を預けて立っていた。
服装は町娘のようだが、何かが決定的に狂っている。
彼女の左目──そこには瞳などなく、バグった電子回路のような、不意味な赤いエラー表示がチカチカと明滅していた。
世界でただ一人、隔離されたアレンを正確に「観測」している少女は、エラーの左目を細めてニヤリと笑った。
(第21話:選択 ・ 完)
(次回「第22話:存在整合性」へ続く)




