第20話:再起動不能(ブート・フェイラー)
音がない。
風もない。
光さえ、動いていない。
アレンはゆっくりと目を開いた。
そこには、ほんの数秒前まで自分を包んでいたはずの王都の喧騒も、崩壊しかけた石造りの街並みも、何も存在しなかった。
白。
どこまでも続く、果てのない白。
その白い空間の奥を、血の通わない無機質な文字列だけが、終わりのない機械の悲鳴のように激しく流れ続けている。
《BOOT SEQUENCE START》
《システムファイルを確認中……》
《ERROR:重要ファイルが見つかりません》
《ERROR:世界構造データを読み込めません》
《ERROR:起動に失敗しました》
《再試行します》
《再試行します》
《再試行します》
《再試行します》
何百回、何千回と繰り返される、虚しい再起動の試み。
文字は狂ったように流れている。しかし、世界は1ミリも動いていない。人間の脳では処理しきれない、圧倒的な矛盾を孕んだ光景だった。
アレンは立ち上がろうとした。
だが、自分が立っているのか、それとも底のない虚無に浮いているのかすら分からない。
足元の感覚がなかった。
重力がなかった。
空間の上下左右を定義する、すべての概念が消失していた。
「……誰か、いるの?」
声を出したつもりだった。
しかし、自分の鼓膜には何も届かない。
当然だった。この世界にはもう、振動を伝える「空気」も、それを処理する「音」そのものが存在しないのだから。
アレンは、恐る恐る自分の右腕に視線を落とした。
これまで嫌というほど脳内に響いていたシステムメッセージは途絶え、真鍮の義手は完全に沈黙していた。
警告の赤光も、軋む火花もない。ただ、体温を吸い尽くすかのように冷たく、そこにぶら下がっているだけだった。
「僕は……みんなは……?」
誰もいない。
王都も。
共に戦った人々も。
見上げるはずの空も、踏みしめるはずの大地も。
何も、ない。
ただ、自分という不完全なバグだけが、起動を拒絶したシステムの内側に置き去りにされている。
ここは死後の世界なのか。それとも、世界の終わりそのものなのか。
孤独と虚無がアレンの精神を塗りつぶそうとした、その時だった。
狂ったように流れるエラーログが、一瞬、ピタリと止まった。
次の瞬間、システムが弾かれたように見たこともない文字列を吐き出し始める。
《不明なデータを検出》
《認識不能》
《アクセス権限なし》
《隔離領域より信号を受信──》
新しい敵か。あるいは、世界を完全に消滅させるための最終プログラムか。
アレンが身構えたその時、果てしない白の奥底に、**「一つだけ存在する、淡い青い光」**がポツンと灯った。
アレンは引き寄せられるように、その光へ向かって歩き出す。
足応えのない虚空を、ただ必死に、泳ぐように進む。
近づく。
近づく。
近づく。
その青い光が、明確に「ひとの形」を結び始めた、その瞬間。
耳のすぐ後ろで、世界に存在しないはずの「音」が、鼓膜ではなく、彼の魂に直接響いた。
──『……見つけた』
少女の声だった。
アレンの心臓が、大きく跳ねる。
世界OSの冷徹な声ではない。ずっと、ずっと、自分が心の奥底で求め続けていた響き。
アレンは、ゆっくりと振り返る。
そこにいた。
世界中から消されても。
.
誰の記憶からも奪われても。
ただ一人、消えなかった少女。
エレノアが、立っていた。
「やっと静かになったね」
エレノアは泣きそうな顔で、けれど愛おしそうに小さく笑った。
その姿だけは、世界のどんなログよりも鮮明で、バグ一つない純粋な形を保っている。
アレンは息を呑んだ。
胸の奥が、引き裂かれるように痛い。熱い。何かが激しく警鐘を鳴らしている。
……なのに。
「君は……誰?」
アレンの口から出たのは、あまりにも残酷な拒絶だった。
思い出せない。
目の前にいる少女の、名前も、声も、共に過ごしたはずの時間も、すべてが頭の中から綺麗に「フォーマット」されている。
エレノアの瞳が、一瞬だけ傷ついたように揺れた。
しかし、彼女は怒らなかった。責めるような素振りすら見せず、ただ悲しいほど静かにそれを受け入れた。
「うん。そうだよね。忘れちゃったんだもんね」
「ごめん。僕……君のことを知らないはずなのに……」
アレンは自分の胸を強く掴んだ。涙が溢れそうだった。
「どうしてこんなに、苦しいんだろう。どうしてこんなに、涙が止まらないんだ……!」
記憶のデータは存在しない。脳の記録は真っ白だ。
それなのに、胸の痛みだけが、システムを無視して暴れている。
エレノアはそっと手を伸ばし、アレンの胸のあたりを優しく指差した。
「それはね……消しきれなかったから」
世界OSは記憶を消した。けれど、そこにあった「感情」というノイズだけは、完全にデリートすることができなかったのだ。
アレンは涙を拭うことも忘れ、彼女を見つめた。
「君はいったい、何者なの? 僕たちはここで何をしていて……君は、何のために消されたんだ?」
「今はまだ、言えないよ」
エレノアは首を振る。
「どうして? 教えてくれ。僕は、君を助けたくて──」
「話したらね、アレン」
エレノアの笑顔から、すうっと温度が消える。
「世界が、本当に終わっちゃうから」
世界OSに囚われた悲劇のヒロイン。
アレンもそう信じていた。
しかし、彼女が真実を口にした瞬間、この凍結した世界システムそのものが完全崩壊する。彼女は被害者であると同時に、この世界を滅ぼしかねない最悪の「鍵」でもあった。
その一言の本当の意味を、アレンが問いかけるよりも早く。
世界の白が、反転するように、真っ黒な闇へと染まり始めた。
そして、その闇の遥か上空で。
何かが、こちらを見ていた。
《UNKNOWN OBSERVER DETECTED》
(第20話:再起動不能 ・ 完)
(次回「第21話:選択」へ続く)




