第18話:整合性崩壊(コンシステンシー・ブレイク)
世界OSは、停止することを選択できない。
通常のシステムであれば、処理不能な未解決例外に直面した時点で、全稼働を緊急シャットダウンし、管理者の介入を待つ。しかし、この世界を管理する絶対的な最適化装置には、その仕様が存在しなかった。
ゆえに、システムが選んだのは──狂気的なまでの「再帰処理」だった。
エラーを握り潰し、アレンという絶対の正解を参照し、何が何でも現実を「正しい形」へ修復しようと全演算能力を回し続ける。
その過剰な修復の摩擦熱が、王都の現実を物理的に融解させ始めていた。
修復、崩壊。修復、崩壊。
王都中央広場の石畳に、突如として激しい亀裂が走る。
通りかかったアレンが右腕をかざすると、空間のノイズと共に亀裂は瞬時に消え去り、群衆は安堵の息を漏らす。──だが、そのコンマ数秒後。全く別の路地で、先ほどと「寸分違わぬ形状」の亀裂が弾け飛ぶように発生した。
バグを押し出せば、別の場所から漏れ出す。世界そのものが高熱を出してのたうち回っているかのように、崩壊と修復の無限ループが王都を蝕んでいた。
やがて、その歪みは物質だけでなく、時間のつじつま──「因果の同期」すら狂わせた。
「毎度あり。これが頼まれてた果物だ」
市場の商人が、穏やかに笑って客に商品を渡し、銅貨を受け取る。
その直後、王都の空間全体が、パチリと瞬きをするように明滅した。
気づけば、商人の手にはまだ果物があり、客は今まさに財布を開こうとしている。
「あれ……? おい、今、確かに売ったよな?」
商人は記憶だけを残したまま、数秒前の過去へ巻き戻されていた。困惑して客の顔を見るが、客は怪訝そうに首を傾げるだけだ。
「何の話だ? これから買うんだろう」
再び同じ会話。再び同じ取引。そして、再び訪れる巻き戻り。
パケットを喪失した通信のように、同じ時間が何度も何度もリライトされる。世界の住民たちは、自分たちの現実が「ループしている」という悍ましいバグに、はっきりと気づき始めていた。
だが、最も決定的な破綻は、世界の『絶対の基準値』に起きていた。
「みんな大丈夫だよ」
混乱する群衆に向けて、アレンはいつも通り、100%の善意を込めて微笑んだ。
「みんな大丈夫だよ」
.
直後、少年は全く同じトーン、同じ表情で、同じ言葉をもう一度喋った。
「え……?」
群衆の顔が凍りつく。アレン自身は、自分が重複して発言したことにすら気づいていない。ただ、世界システムがハングアップしかけているせいで、アレンという「正解データ」の出力までもが致命的な処理落ちを起こしていた。
アレンが前へ歩き出す。
その瞬間、彼の背後に、数秒前の「立ち止まっていたアレン」の残像がゆらりと取り残された。歩くアレン、振り返るアレン、微笑むアレン──複数の状態のアレンが、同じ空間に多重レンダリングされ、遅れて吸い込まれるように一つに重なる。
CPUが限界を迎えた世界で、少年はもはや、正常なフレームレートで存在することすら許されなくなっていた。
その時、大図書室の周辺を覆っていた「ブラックボックス」の境界線が、轟音を立てて爆発した。
世界OSの修復圧力が限界を超え、黒い領域に致命的なひび割れを入れたのだ。
だが、そこから溢れ出したのは、エレノアという個人の姿ではなかった。
《会いたい》
《ありがとう》
《助けられた》
《好きだった》
《忘れたくない》
それは、世界中から消去され、存在しないことにされたはずの、無数の人々の「感情ログ」だった。
青く滲む文字の濁流が、システムログの体裁を保ったまま、王都の空から豪雨のように降り注ぐ。それは世界システムがどれほど歴史を書き換えてもアンインストールできなかった、人間の想いの残骸だった。
王都の全域に、真っ赤なシステムログが強制展開される。
《全世界同期処理を開始》
《同期対象を検索中》
《対象数:0》
《……失敗》
《整合性維持率:50.01%》
《警告──50%を下回った場合、世界構造を維持できません》
《再計算を開始》
《再計算を開始》
《再計算を開始》
《……》
《失敗》
ゴオォォォン……と、定刻を無視した鐘の音が、世界がハングアップした電子音のような不協和音となって響き渡る。
同時に、王都の遥か上空──セピア色に狂った空を引き裂くように、生まれて初めて見る巨大な「世界の亀裂」が走り抜けた。
人々はただ、現実が完全にへし折れた空を仰ぎ、絶望に震えている。
その世界の中心で、アレンだけが、自分の右腕を見つめたまま、どうしても理解できないという顔でぽつりと呟いた。
「どうして……直らないんだろう」
世界が、もう二度と元には戻れないことが、確定した。
(第18話・了 / 次回「第19話:世界損傷」へ続く)




