第17話:未解決例外(アンハンドルド・エクセプション)
世界システムにとって、それは未知の「感染」だった。
大図書室のブラックボックスから漏れ出したバグは、もはや空間や物質の破損というフェーズを超えていた。世界OSがどれほど因果の整合性を上書きしようとも、王都の深層階には、消去しきれない「痕跡」が澱のように残留し、人々の精神へと侵食を始めていたのだ。
──《感情汚染領域(Emotional Leak)》。
世界が、定義不能な「想い」に冒され始めていた。
「……おかしいんだ」
王都の広場で、一人の若い騎士が、剣を握ったまま茫然と呟いた。
「誰を探しているのか、分からない。顔も、名前も、そんな奴が俺の記憶にいないことも分かっている。なのに……胸が、張り裂けそうに痛いんだ。あいつに、会わなきゃいけない気がするんだ」
周囲の群衆もまた、同様の奇妙な熱病に浮かされていた。
ある者は市場の雑踏で立ち尽くし、ある者は存在しない誰かの面影を求めて路地裏を彷徨う。
彼らの「記憶」は完全にクリーンアップされていた。世界システムの手によって、エレノアという存在の記録は一片たりとも残さずアンインストールされている。
それなのに、彼らの胸の奥には、論理削除を拒絶した「誰かを好きだった」という剥き出しの感情だけが、ファントムのように脈打っていた。
存在はゼロ。しかし、影響は無限。
エレノアはもう、単なる一人の少女ではなかった。世界から消去されながらも、世界の感情層にだけ巨大なノイズとして残留し続ける、哀しい「未解決事象」そのものと化していた。
市場の片隅でも、その静かな崩壊は牙を剥いていた。
幼い少女が、母親の服を必死に掴んで泣きじゃくっている。
「お母さん……なんで、私のこと、そんな顔で見るの?」
女は困ったように眉を寄せ、娘を見下ろしていた。
「ごめんなさいね。あなたを怖がらせるつもりじゃないの」
その声には、確かに大人の優しさがあった。だが、その瞳の奥には、我が子を見つめるはずの愛着も、愛おしさも、すべての感情データが綺麗に欠落していた。
少女は震える唇で呟く。
「やだ……。お母さん、前はもっと、あったかかったのに……」
その瞬間、通りを歩いていたアレンが、ふと足を止めて静かに右手をかざした。
「可哀想に。今、治してあげるからね」
真鍮の指先が微かに光り、空間のノイズが瞬時に収束していく。
世界システムがアレンの最適化権限をジャックし、母親の精神ログを『正しい仕様』へと瞬時に再同期させた。
母親は穏やかに微笑み、少女の頭を優しく撫でた。
「大丈夫よ、もう怖くないわ」
──寸分の狂いもない、完璧な母親の動作だった。
けれど少女は、なぜか、先ほどよりも激しく、壊れるように絶望して泣きじゃくった。
「あ、アレン……!」
混迷を極める王都の通りを、アレンがなおも静かに歩いていく。
その姿を見つけた人々が、救いを求めるように次々と少年に縋りついた。彼が通り過ぎた後、世界システムはアレンを絶対の基準値としてリアルタイムに現実をクリーンアップしていく。
騎士の胸の痛みは、瞬時に消え去った。
彷徨っていた群衆の涙も止まり、人々は「正常な日常」へと戻されていく。
──だが、その顔からは、一切の色彩が失われていた。
バグが修正されるたび、人々の胸の奥には、底の知れない、致命的な「欠落感」だけが強固に固定されていく。アレンが世界を救うために右腕を振るうほど、人々は「誰かを愛する」という不合理なバグを強制的にデバッグされ、ただ幸福に呼吸するだけの、空虚な『最適化個体』へと作り変えられていくのだ。
アレンは世界を救っている。しかし同時に、人間の感情を、その根から絶やしにしている。
悪意なきデバッガーの歩みは、王都の人間性に対する、最も美しく冷酷な死刑宣告だった。
その時、アレンの脳裏に、世界システムの悲鳴のような警告音がかつてない密度で叩きつけられた。
少年の目の前、大図書室の強固なブラックボックスの境界線が、世界システムの修復圧力と激突し、空間そのものをガラスのようにひび割れさせていく。
その亀裂の奥から、世界のシステムログが、真っ赤なエラーとして深層へ吐き出された。
世界OSの全演算領域が、一瞬だけ沈黙した。
《警告:深層因果階層に異常を検出》
《未解決感情データを検出》
《スキャン失敗──削除不能》
《原因:不明》
《感情データが因果層へ侵食中》
《──例外処理が存在しません》
全知全能だった世界OSが、処理ルートを持たない「仕様外の愛」を前にして、完全なハングアップ(機能不全)を起こした瞬間だった。
(第17話・了 / 次回「第18話:整合性崩壊」へ続く)




