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『星を紡ぐ右腕 〜追放された魔導技師、壊れた右腕で世界を繋ぐ〜』  作者: 鍼灸師いのぴー


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第16話:観測不能領域(ブラックボックス)

王都の「解像度」が、そこだけ不自然に合わなくなり始めていた。


大図書室の周辺領域──そこは今や、世界OSが正常にアクセスを承認できない唯一の「空白」と化していた。

「おい、図書室に入ったはずなのに、気づいたら中庭に出ていたぞ」

「何を言ってるんだ? あそこは最初から、立ち入り禁止の閉鎖区画だろう」

行き交う学生たちの会話は、噛み合わないまま霧のように霧散していく。人によって入口の位置が変わり、ある者にとっては存在すら認識できない。


さらに異常なのは、その内部を辛うじて目撃した者たちの証言だった。

「中は、やけに広かった。本棚が空の上まで続いていたんだ」

「いや、俺が入った時はひどく狭かったぞ? 壁がすぐそこにあって……」

「違う、地下へ降りる長い階段なんて無かったはずだ」

観測者ごとに内部構造が歪み、矛盾する。世界システムがそこを「最適化」も「定義」もできないがゆえに、空間の座標そのものが致命的なバグを起こしていた。

誰一人として、“同じ図書室”を見た者がいなかった。


大図書室の最奥、机の上に置かれたエレノアのノートは、もはや概念的な怪異だった。

その残ページ数は、観測者によって奇怪に変質する。ある者には分厚い二百ページの本に見え、ある者にはただの白紙に見え、またある者には文字の羅列さえ視認できない。

世界OSから見れば、そこはスキャンすら拒絶される、完全な「観測不能領域ブラックボックス」だった。


だが、エラーの波及はそこだけに留まらなかった。

世界OSが「修正中断」を選択した影響は、王都全域の現実を物理的に引き裂き始めていた。


「お前、昨日言ってたパン屋の親父さんの話、本当か?」

「ああ……。親父さん、昨日『娘と楽しく夕食を食べた』って笑ってたんだ。でも、役所の記録を調べたら、あの家には最初から娘なんて存在しないことになってる」

「ただの勘違いだろ」

「違うんだよ。親父さんの家の食卓には、今も──確かに『二人分』のスープ皿が残ってるんだ」


記憶の齟齬ではない。

世界OSによる「存在の消去」という処理に対し、現実の物質が同期を拒否し、因果が剥き出しで競合している。

街のあちこちで、数年前に取り壊されたはずの建物が一瞬だけ陽炎のように現れては消え、すでに処刑されたはずの貴族の紋章が壁に浮かび上がっては霧散した。

世界システムが、現実の整合性を保てなくなっている。




(……? 変だな)


王都の喧騒を見下ろすテラスで、アレンは奇妙な違和感に胸を衝かれていた。

右腕を宙にかざし、いつものように世界の「流れ」を整えようとした、その瞬間。

チリ、と真鍮の指先がかすかな高周波のノイズを立てたのだ。


アレンの脳内に常に応答を返していた、世界システムからの最適化補助。それが、ほんの一瞬だけ──コンマ数秒、明確に遅延した。

これまで一度もなかったことだ。


アレンは視線を巡らせ、王都の片隅に佇む、あの霧に煙る大図書室の方向を見つめた。

彼には、そこが何なのかは分からない。世界OSが彼に真実を隠蔽しているからだ。ただ、アレンの純粋な善意だけが、その空白の奥を察知していた。


「あの場所にいる人……なんだか、すごく苦しそうだ」


アレンの瞳には、一切の悪意がない。彼はただ、純粋にその「詰まり」を心配していた。

「少し、軽くしてあげなくちゃ。みんなが楽になれるように」


少年がその100%の善意で、ゆっくりと大図書室に向けて歩みを進める。

彼が歩いた後だけ、陽炎のように揺らいでいた街路の輪郭が、吸い込まれるように静かに固定されていった。世界システムが、アレンという存在を『絶対の正解』として参照し、現実をリアルタイムに再デバッグしていくのだ。

彼が近づくだけで、世界OSのシステムパワーが自動的に大図書室を包囲し、最奥で耐え続けるエレノアの「残存領域:6%」を、物理的な圧力となって容赦なく削り取っていく。


その時──。

ゴオォォォォン、と王都の中央にそびえる大鐘楼の鐘が、重々しく鳴り響いた。

定刻ではない。それどころか、鐘楼には今、誰も人がいないはずだった。


誰も撞いていない鐘の音が、世界システムの軋みそのもののような悲鳴を上げて、王都全域に響き渡る。そのノイズ混じりだった鐘の残響が、アレンの周囲だけ、妙に澄み切って聞こえていた。


「あ……」

その音を聞いた瞬間、街の老人が理由もなく涙を流した。

子供たちが怯えたように空を見上げ、すれ違う人々が、胸の奥を激しく掻き毟られるような「強烈な懐かしさ」に足を止めた。

王都の誰もが、何か、途方もなく大切なものを思い出しそうになっていた。

──だが、自分が「何を思い出しかけているのか」は、世界の誰にも分からなかった。


世界そのものの記憶が、鐘の音に刻まれて激しく揺れている。

その高負荷の最中、王都の噴水広場で、一羽の白い鳥が突然空中で静止した。翼を広げたまま、まるでそこに透明な壁でもあるかのように、物理法則を無視してピたりと静止する。

空間のレンダリングそのものが、決定的にフリーズしかけていた。


その瞬間。大図書室の最奥、アレンの接近によって白紙クリーンアップへと還されたはずのノートの一頁に、世界の悲鳴と同期するように、滲むような青いインクの文字がぽつりと浮かび上がった。


──『好きだった』。


消去しきれないその一行が、世界の最深部を決定的に穿っていた。

直後、世界の深層で、引き裂かれたようなシステムログが出力された。


《警告》

《王都中央領域に未定義空間を検出》

《観測不能》

《内部スキャン失敗》

《原因──》

《不明》

《修正優先順位を再計算》

《……失敗》

《該当事象は仕様外です》


すべての最適化を誇った世界システムが、初めて「未知」という怪異をログに刻みつけた。




(第16話・了 / 次回「第17話:未解決例外アンハンドルド・エクセプション」へ続く)

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