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『星を紡ぐ右腕 〜追放された魔導技師、壊れた右腕で世界を繋ぐ〜』  作者: 鍼灸師いのぴー


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第15話:未定義の応答(アンサーログ)

世界の深層。

誰にも知覚できない、果てのない白い仮想空間。

そこでは、世界の因果を規定する無数の青白い文字列が、星の流れるような速度で明滅を繰り返していた。


《対象:未定義オブジェクト(旧識別名:エレノア・ローゼンベルク)》

《現在、あなたの観測行為による論理矛盾により、王都全域で0.31秒の同期遅延が発生しています》

《周辺因果への影響:交通事故発生率 +2.1% / 幼児死亡率 +0.08% / 精神負荷増大による自殺率予測 +0.4%》

《現在の累積損失幸福量:18,441》

《許容誤差を超過》


悍ましいのは、世界OSに「怒り」も「敵意」もないことだった。

システムはただ、親切な福祉システムのように、全体最適のための冷徹なファクトを彼女に提示している。


《提案》

《対象の脳神経に深刻な負荷を確認。長期維持は対象に多大な苦痛を伴います》

《あなたは十分に苦しみました。これ以上の維持は、あなた自身にとっても非推奨です》

自己初期化フォーマットを承認した場合、苦痛:0、恐怖:0、記憶欠損:すべて修復。あなたは安らかに終了できます》

《これは世界全体にとって最も効率的な解決です。なぜ、そこまでして非効率な苦痛を維持するのですか?》


「……うるさい」


エレノアは、血の気の引いた唇を震わせ、掠れた声を絞り出した。

すでに彼女の脳は、人間の言語ではなく「システムの仕様書」によって内側から侵食されつつあった。


先ほどから、インク瓶の蓋を開けるという単純な動作を、三度連続で忘れている。

ノートへ文字を必死に書き留める先から、数行前に自分が書いた文面の「意味」が理解できなくなる。自分が記述したはずのバックアップを、自身の脳が読み込めない。認知のキャッシュが、急速に破損していく。

自分の名前のファーストネームさえ、もう二度と思い出せない。


「三人……助かる? だから何だというの……」


彼女は、自身の筆跡であることすら認識できなくなりつつあるノートに、狂ったようにペンを叩きつけた。

ガリ、とインクが紙を削る。それはシステムに対する、人間の「生々しい生存ログ」の逆噴射だった。


「雨の日に、パンを焦がしたメイドも……」

「酔って、ドブ川に落ちる馬鹿も……」

「愛する相手を間違えて、一生を壊す愚か者も──」

「全部、全部……この世界に、必要だったのよ……っ!」


カリカリと、激しい音が静寂を劈く。

脳内のエラーログが、彼女の反論を「未定義のコード」として処理していく。


「あなたは……綺麗に整理された幸福しか理解しない。でも、人間はね、無駄の中でしか、生きられないのよ……!」


《入力値が仕様範囲外です》

《現在、対象の自己定義は94%損失しています》

《残存領域:6%》

《継続は非推奨です》

《再度問いかけます。あなたは、誰ですか》


脳髄を直接灼かれるような冷気の中、エレノアは涙を流しながら、引きつった笑みを浮かべた。


「私は誰だったか……もう、分からないわよ。私自身の記録ログさえ、全部消えてしまったもの」


それでも、何度も上書きされ、擦り切れ、断片化した記憶の残滓を愛おしむように、彼女は血の滲む手でペンを突き立て、世界OSのシステムそのものを凝視した。


「……でも。それでも私は、あの不平等で、無駄だらけで、最低だった、あの世界が好きだった」


《──警告》

《該当感情ログを分類できません》

《“好き”の定義に失敗しました》

《感情ログを再解析します》

《……》

《……失敗》

《理由:不明》

《修正プロセスを中断します》


その瞬間、大図書室の空間全体が、悲鳴のようなグリッチノイズを伴って激しく明滅した。




「──うん。やっぱり、最近みんな頭痛が酷そうなんだよね」


同じ頃、学園のテラス。

アレンは真鍮の右腕をそっと宙にかざし、王都の空を見上げていた。

彼の瞳には、ただただ、周囲の人々を思いやる純粋な優しさだけが宿っている。


「きっと、世界のどこかで、流れが詰まってるんだろうな。ハーブの土を直した時みたいに、少しだけ、全体のパイプを軽くしてあげよう」


アレンは100%の善意で、世界のコードを「無自覚に微調整デバッグ」した。

悪意など微塵もない。彼が「みんなのために」と微笑み、右腕をほんの少しひねった、その瞬間──。


ザザっ。


大図書室の最奥で、エレノアの抱えていたノートの文字が、まるで強い光に晒されたように、数ページ分まとめて「白紙クリーンアップ」へと還った。


「あ──、あ、あ……っ」


エレノアの口から、言葉にならない悲鳴が漏れる。

アレンが優しく微笑むたびに、世界はその笑顔を『正解の仕様書』として全知全能の力で現実を上書きし、彼女の防壁を容赦なく削り取っていく。


「みんな、ちゃんと眠れるようになるといいな」


少年が、あまりにも無邪気に世界の最適化を肯定する裏で。

その日、世界システムは初めて、修正不能なエラーコードを検出した。




(第15話・了 / 次回「第16話:観測不能領域ブラックボックス」へ続く)

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