第13話:不要オブジェクトのメモリ解放(デリート)
それは、あまりにも静かな『お掃除』だった。
「開かない……? なぜだ、私の血統認証が弾かれる……!?」
学園の北翼、代々の特権貴族だけが入室を許された『栄誉の聖堂』の前にて。
名門貴族の生徒が、自身の紋章が刻まれた指輪を扉の魔導陣にかざしながら、狼狽した声を上げていた。
昨日までは、指輪の魔力に反応して恭しく開いていたはずの自動扉だ。それが今は、何度かざしても、ピピッという無機質な拒絶音を返すだけ。
否、それだけではない。
「おい、しっかりしろ! 指令式のどこがバグっているんだ!?」
焦った彼が同行していた魔導工学の教師に詰め寄った、その瞬間だった。
フッ、と。
目の前にあったはずの、精緻な彫刻が施された大理石の扉が、一瞬だけデジタルノイズのようにブレた。
「……え?」
二人が目を瞬いた時には。
そこには、ただの「まっすぐな、何もない白い壁」が続いていた。
扉があったはずの場所。固定具の跡も、経年劣化の汚れも、最初からそこに壁しかなかったかのように、完璧に空間が馴染んでいる。
「あ……あ……?」
貴族の生徒が、自分の指輪を見つめたまま硬直する。
「俺は、ここで……何をしようとしていたんだっけ?」
教師もまた、記憶の糸がぷつりと切れたような顔で、白壁を見つめていた。
破壊ではない。爆発もない。
世界システムが『百年間、利用実績ゼロ / 特権層の虚栄心を満たすためだけに毎時膨大な魔力を消費している空オブジェクト』と判断したその瞬間、その空間の存在履歴ごと、メモリが完全に解放されたのだ。
敵として否定すらされない。
ただ、「無駄だから、いらないよね」と、世界のOSから静かに消去されていた。
同時刻、大図書室の奥。
エレノア・ローゼンベルクは、猛烈な勢いでペンを走らせていた。
ガタガタと全身を震わせ、今にも過呼吸で倒れそうなのに、その瞳だけは爛々と狂気的な光を放っている。
彼女の手元にあるノートには、おびただしい数の「図面」や「名前」が、古いインクで緻密に書き留められていた。
『13:02──学園北翼、栄誉の聖堂が消失。壁面に変化』
『13:05──中央中庭の「建国記念碑」、ログよりデリート』
「あ、はは……消えていく……みんな、忘れていく……」
エレノアは引きつった笑いを漏らしながら、涙の一滴も流さず、ただノートを死守するように抱きしめた。
知性が高すぎる彼女は、理解してしまったのだ。
世界がアレンを基準に再計算を始めた結果、この世界に蔓延る「非効率なもの」「権威のためだけの無駄」が、過去の履歴ごと消去され始めていることに。
今、この瞬間も、彼女の脳内から「何か重要な記憶」がサラサラと砂のように零れ落ちていく感覚がある。
だが、アレンの行動を起点に「何が消されたか」を書き留めているこのノートだけが、世界で唯一の、改変前の世界仕様書だった。
「私たちが……私が記録を止めれば……私たちが何を持っていたのか、誰も……自分自身すら分からなくなる……!」
それは、プライドの崩壊を超えた、世界の終末をただ一人で看取る『最後の記録者』の業だった。
「――『始祖の聖杯』を確認しろ!!」
同学園の円卓会議室。
大教会監査官が、狂ったような悲鳴を上げて聖遺物保管庫の鉄扉を蹴り開けた。
「あれは王家との契約術式の核だ! あれが万が一にも消えれば、我ら教会の権威が──」
しかし、保管庫の中に飛び込んだ理事たちと監査官は、その場で総立ちのまま凍りついた。
そこには、何もなかった。
中央の台座は、ただの空っぽ。
台座には、何百年もそこに重い聖杯が置かれていたはずの『凹み』すらもない。最初から、ただの「綺麗な平らな石」がそこにあるだけだ。
埃一つ積もっていないその光景は、世界が『最初からそこには何も置かれていなかった』と主張しているようだった。
「……待て」
理事故頭の一人が、こめかみを押さえながら、呆然と呟いた。
「『始祖の聖杯』とは……一体、何の話だ?」
「何を言っている! 大教会が誇る“七聖家”の……」
監査官は叫び、そこで、ぴたりと不自然に言葉を止めた。
七。
なぜ今、自分は“七”と言った?
「……待て」
理事の一人が青ざめる。
「ローゼンベルク家、ヴァルツ家、アルノー家……」
指を折る。
四つ目で、止まる。
「あと……誰だ?」
誰も答えられない。
だが全員が、自身の脳の根幹から“何かが決定的に足りない”ということだけは、悍ましい感覚として理解していた。
世界は、彼らを敵とすら認識していない。
ただ、システムに負荷をかけるだけの『無駄な重複データ』として、その歴史の定義ごと、静かに、滑らかに、クリーンアップしていく。
そして、その静かな崩壊は、王都の誰にも止められないまま広がっていく。
その頃。
新しくなったばかりの男子寮の共同給湯室。
外の世界の階級制度や概念が音を立てずに消滅しつつあることなど、アレンには全く関係がなかった。
「うん! やっぱり時間同期が完璧だと、魔導温水器の点火タイミングがズレなくていいね。お湯が沸くのが一瞬だよ」
アレンは真鍮の右腕を器用に動かしながら、ハンスたち平民の生徒と一緒に、大量のスープ皿を洗っていた。
「本当ですねアレン先輩! しかも、シンクの排水口の詰まりを先輩が昨日ちょっと突っついてくれたおかげで、水が全然溜まらないんです。洗い物が一瞬で終わっちゃいますよ!」
「あはは、よかった。あそこのトラップ管、無駄にカーブが多すぎて、ゴミが溜まりやすい構造になってたからね。真っ直ぐにして、不要な仕切り(コード)をパパッと取り除いただけだよ」
アレンは、本当に、ただ善意でお手伝いをしただけだった。
「洗い物が早く終われば、みんなのスープが冷めないうちに配れるから、その方が気持ちいいよね」
ただ、それだけの、どこまでも小さな生活の知恵。
だが、アレンが何気なく口にした、
「不要な仕切り(コード)を取り除いただけ」
という言葉──。
それが世界のOSに対する『実行命令』として処理される。
――カチャ。
アレンが、綺麗になったスープ皿を乾燥棚に「正しい位置」で収めた、その瞬間だった。
学園中から、いや、王都全域から。
数千年間、貴族と平民を隔てていた、街のあちこちにある「目に見えない結界の境界線」や「身分証明のための無駄な通行認証プロセス」が、一斉に、音もなく、当たり前のように消滅した。
王都の巨大な防壁に設置された、貴族専用の通用口が、“最初から存在しなかった”かのように、滑らかな壁へと変化する。
教会の名簿から、実体の伴わない「名誉職」や「特権階級の権限ログ」が、最初から存在しなかったかのように、数千人分まとめて綺麗に消去されてしていく。
だが、社会は混乱しなかった。
むしろ――劇的に便利に、早く、快適に、何の問題もなく回り始めたのだ。
不便だった仕切りが消えたことで、すべてのインフラが、かつてないほど公平に、滑らかに駆動し始める。
「あれ……? 俺、なんでこんなところに立ってたんだっけ?」
王都の検問所で、平民の手荷物を威圧的に検査していた貴族の兵士が、急に槍を降ろして首を傾げた。
「……まあいいか。あ、そこの君、これ以上待たせるのも無駄だし、そのまま通っていいよ」
「えっ、あ、はい……? ありがとうございます」
誰も止められない。なぜなら、新しい世界の方が、圧倒的に「正しい」から。
王都の誰一人として、消えた特権を惜しまなかった。
なぜなら、それが存在していた頃より、今の方が遥かに生きやすかったからだ。
街路の片隅では、ある老人が、自分がなぜ生涯をかけて爵位を欲したのか、その理由だけをどうしても思い出せなくなっていた。
「さ、ハンスくん。片付けも終わったし、スープが温かいうちにみんなのところへ持っていこう!」
「はい、先輩!」
アレンは、お盆に載った湯気立つスープを見つめて、無邪気に笑っている。
少年の微笑みの後ろで。
世界は、誰の悲鳴も上げさせないまま、圧倒的な速度で「レガシーな人間たち」を過去ごと消去し、完璧で、無駄のない、冷徹な『正常(最新バージョン)』へと引き裂かれ続けていた。
(第13話・了 / 次回「第14話:不正アクセスの例外処理」へ続く)




