第11話:仕様書の書き換え(バイパス)
大図書室の最奥、厚さ一マイル(約1.6km)の防壁に囲まれた聖遺物庫。
エレノア・ローゼンベルクは、大教会が世界の夜明けに定めたとされる最高機密――大原典『天理魔導仕様書』の写本を前に、ただ、狂ったようにペンを動かしていた。
ノートに走る文字は、定規で引いたかのように完璧な等間隔。
滲みも、迷いもない。
知性が高すぎる彼女の脳は、恐怖という感情を「演算」に回すことで、かろうじて自我の崩壊を防いでいた。
ハァ、ハァ、と浅い呼吸の音だけが、無人の聖遺物庫に響く。
「……違う」
カチリ、とペン先がノートを叩く。
「間違っているのは、アレンじゃない。……私たち(・・・)だ」
彼女が探していたのは、アレンの術式がいかに邪道で、神への冒涜であるかを示す「証拠」だった。
しかし、数千年にわたる大教会のアップデート履歴――その『消されたログ(リビジョン)』を遡った彼女が辿り着いたのは、あまりにも無慈悲な真実だった。
古代の術式になればなるほど、詠唱は短く、無駄がない。
現在、貴族たちが「神聖な儀式」として崇めている数万文字の祈祷は、そのほとんどが後世の人間によって付け足されたものだった。
(……なぜ?)
エレノアの頭脳が、冷酷に答えを導き出す。
(平民に、使わせないため(・・・・・・・・・))
詠唱を長くし、複雑な聖印を求め、特定の血統にしか反応しないよう、歴史の途中で何重もの「プロテクト」を後付けしただけ。
神聖化ではない。
これは、ただの**『独占仕様』だ。
「あは……」
涙は出なかった。
代わりに、喉の奥から乾いた笑いが漏れた。
誇りが、一瞬で底知れない恐怖へと反転する。
アレンは、大教会に反旗を翻したのではない。ただ、彼が持つ真鍮の右腕という「真っ直ぐな導線」を通して、世界が数千年間隠し続けてきた『最適解』に直接アクセスし、バイパス(短絡路)を繋いでしまったのだ。
「――信じ難い。だが、現実だ」
同学園、円卓会議室。
普段は姿を現さない大教会監査官、魔導工学の権威、そして特権貴族の理事たちが、一堂に会して青ざめていた。
部屋の中央には、学園の心臓部である『大防衛魔法陣』の縮小模型が浮かんでいる。
「今朝、この大魔法陣の起動プロセスから、三十六の『起動詠唱』が完全に行方不明になった。……いや、世界のシステム側から『不要コード』として一斉にパージ(切り捨て)されたのだ」
魔導工学教授の言葉に、貴族理事の顔から血の気が引く。
「馬鹿な……! 我ら貴族が百年の血統を以てして、ようやく制御する大陣だぞ!? 詠唱がなければ、どうやって発動するというのだ!」
「……勝手に起動した(・・・・・・・・・)。それも、消費魔力は従来のわずか四パーセント。ただの端切れのような魔力で、完璧に機能している」
会議室が、凍りついたように静まり返る。
努力。血統。特権。
それら全てを積み上げてようやく辿り着けるはずの最高位魔術が、ただの「非効率なゴミ」として世界に切り捨てられた。
「……これでは」
監査官が、震える声で本質を口にした。
「これでは……魔力を持たぬ平民であっても、ただ手順さえ踏めば、我が国最強の魔法を扱えてしまうではないか……!」
それは、貴族社会の終焉を意味していた。
「違う……これは『革命』ではない」
教授が頭を抱え、絶望的な声を絞り出す。
「もっと質が悪い。革命なら、首謀者を殺せば止まる。だが、これは違う……。“正しいもの”が、ただ勝手に広がっているだけだ(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)**」
敵がいない。悪意もない。
だからこそ、誰にも止められない。
世界のOS(根幹)が、貴族という名のレガシー環境を、冷酷に、合理的に、切り捨てようとしていた。
その頃、中庭の片隅。
世界が崩壊の淵で震えていることなど露知らず、アレンは昼休みのお弁当を開いていた。
「うーん、やっぱりこの干し肉スープ、絶品だよ。ハンスくん、本当にありがとうね」
「いえ! 先輩にそう言ってもらえるなら、いくらでも実家から送らせますから!」
ハンスは嬉しそうにスープをすすりながら、ふと思い出したように言った。
「あ、そうだ先輩。そういえば最近、僕らの寮の給湯魔導管の調子がすごく良いんですよ。今まで夕方になるとお湯が出なくなってたのに、なぜか今は、ひねるだけで熱々のお湯がいくらでも出てくるんです」
「へえ、給湯管が?」
アレンはスプーンを止め、少しだけ首を傾げた。
「それ、たぶん根本の圧力弁が詰まってるだけだよ。魔力が一箇所に溜まって、配管が悲鳴を上げてたんじゃないかな。……うん、昼休み、まだちょっと時間あるね。ついでだし、ちょっと見てあげようか?」
「えっ、いいんですか!?」
アレンにとっては、本当に、ただの善意だった。
「昨日のお礼」の、ほんのささやかなお返し。
古い男子寮の地下室。
埃をかぶった巨大な給湯魔導管の前に立ったアレンは、真鍮の右腕の指先を、配管の接続部にそっと当てた。
カチャカチャ、と心地よい金属音が響く。
「あー、やっぱり。ここ、余計なバイパス回路が多すぎて、魔力が迷子になっちゃってるよ。よし、ここをこうして、真っ直ぐ繋ぎ直して……と」
カチリ。
アレンが、配管の古いネジを一本、ほんの1ミリだけ締め直した。
――その、瞬間だった。
ドクン、と学園の「大地」が脈打った。
アレンが直したのは、ただの古い「給湯管」だ。
しかし、その配管は、学園全体の地脈――そして王都を包む広域結界の「末端」へと繋がっていた。
末端のバグが消去されたことで、ドミノ倒しのように、全ての魔力循環効率が『倍増』の処理を始める。
ゴオオオオオオオ、と地鳴りが響く。
遥か遠く、学園の中心にある大鐘楼が、誰も鳴らしていないのに眩い光を放って鳴り響いた。
王都を護る大結界が、これまでにないほど強固な「黄金の障壁」へと変貌し、空間を固定する。
聖堂の転送門が、一斉に同期して起動のハミングを始めた。
校舎の窓から、教師たちが、生徒たちが、何事かと外を飛び出して叫び声を上げる。
「また始まったぞ!!」
「今度は何が直されたんだ!?」
阿鼻叫喚の学園内で、ただ一人、地下室のアレンだけが、真鍮の右腕をぽん、と叩いて無邪気に笑っていた。
「よし、これでバグは消えたよ。……あれ? 今日はやけにネジの回りがいいな。天気がいいからかな」
その頃。
光を放ち始めた聖遺物庫の中で、エレノアは目を見開いたまま、完全に硬直していた。
彼女の手元にある『天理魔導仕様書』。
世界に一冊しかないはずの古代の白紙のページが、アレンの「配管修理」と完全に同期して、猛烈な勢いで再構成を始めていたのだ。
パラパラパラパラ! とページが激しくめくれ、ある一節でピタリと止まる。
眩い光と共に、そこへ、これまで歴史上誰も見たことのない『古代魔導語』の文字列が、冷酷に浮かび上がっていく。
その高度な文字列を、エレノアの呪われた天才的な知性は、完璧に翻訳してしまった。
そこには、こう記されていた。
――『保守管理者認証:アレン』
「……あ」
ペンが、彼女の手から滑り落ちた。
世界が、あの少年を、正式な「主」として認め始めた。
エレノアは、ただその文字を見つめたまま、二度と戻らない現実の崩壊に、深く、深く、囚われていった。
(第11話・了 / 次回「第12話:レガシー環境の強制終了」へ続く)




