第10話:図書室のデバッガーたち
放課後の王立魔導学園。その最奥に位置する大図書室は、天井まで届く書架に囲まれ、古い羊皮紙とインクの匂いが満ちる静謐な空間だった。
普段は熱心なエリート学生しか立ち入らないこの場所の、最も奥まった閲覧席で、アレンは困惑したように真鍮の右腕で頭を掻いていた。
「……あの、エレノア様。僕をこんなところに呼び出して、一体何の用事ですか? 工房の夕飯の時間もあるので、あまり遅くなるとクロムさんに怒られてしまうのですが」
アレンの目の前には、白磁の肌に燃えるような紅い髪を持つ、学園最高の天才にして公爵令嬢、エレノア・ローゼンベルクが座っていた。
彼女は机の上に、分厚い一冊の魔導書をドン、と広げてみせた。大教会の直属組織が編纂した、国家一級指定の術式集――『聖大術式・基盤論』。通常の学生であれば、閲覧すら許されない最上級の仕様書である。
「単刀直入に言うわ、アレン。これ(・・)を読み解いてちょうだい」
「えぇ……? 僕、ただの平民の保守屋ですよ? こんな高尚な大教会の本なんて、僕の出る幕じゃ……」
「いいから見なさい。これは命令ではなく、私の純粋な、知性の懇願よ」
エレノアの瞳は、昼間の演習場でアレンがハンスのコンロを一瞬で最適化したあの瞬間から、奇妙な熱を帯びていた。彼女は天才だった。だからこそ、アレンがやったことが「ただの奇跡」ではなく、何か根源的な理論に基づいているのではないかと、脳が激しくアラートを鳴らしていたのだ。
アレンはため息を吐き、渋々その分厚い魔導書に目を落とした。
彼の『デバッガー・アイ』が、大教会が数百年かけて構築したという神聖な術式の複雑な回路を、一本一本透過し、読み解いていく。
そして、ものの数秒。
アレンは怪訝そうに眉をひそめ、真鍮の指先で、書面に描かれた複雑怪奇な魔法陣の「ある一点」をトントンと叩いた。
「……あの、エレノア様。これ、すごく変です。この中盤にある『神聖なる十七節の祈祷』のレイヤーなんですけど……これ、全く意味がない(・・・・・・)ですよ? ここで魔力を一度ぐるっと外側の冗長なループに迂回させて、わざわざ出力を7割も減衰させてから、次の回路に繋いでる。……危ない配管を直すどころか、これ、わざと途中のパイプを細くして、魔力を無駄に垂れ流す構造にしてます」
アレンは純粋に、職人として「なんて非効率で下手くそな設計なんだ」と呆れていた。
「普通に、この無駄な迂回路をパッチで潰して、魔力をストレートにインジェクション(直接注入)してあげれば、詠唱も祈祷も全部すっ飛ばして、千分の一の魔力で、十倍の強度の結界が張れます。……なんでこんな、素人が作ったみたいなスパゲッティコード(複雑に絡み合ったプログラム)を、国の基盤術式にしてるんでしょうか? 危ないし、無駄なのに」
アレンは、ただ「技術的なバグ」を指摘しただけだった。
世界を批判する意図も、大教会を侮辱する意図も、一滴も含まれていない。ただの保守屋の、あまりにも無害で善良な正常性。
だが。
それを聞いたエレノアの全身に、激しい拒絶の戦慄が走った。
「――馬鹿なことを言わないでちょうだい!」
エレノアは思わず立ち上がり、低い、しかし鋭い声でアレンを拒絶した。彼女の気品ある顔が、困惑と怒りで僅かに歪む。
「何を言うかと思えば……! これは大教会が神の啓示を受け、数百年もの間、我が国の防衛を支え続けてきた絶対の『聖大術式』よ!? それを、無駄だの、素人のスパゲッティだの……! そんなこと、あるはずがないわ。あなたの言っていることは、ただの傲慢な妄言、あるいは既成理論を冒涜する危険思想よ!」
エレノアは強く言い放った。彼女は貴族社会の頂点に立つ人間であり、この世界の魔法文明というOS(基本OS)を最も愛し、最も正しく学んできた優等生なのだ。アレンの言う「正論」は、彼女がこれまで積み上げてきた人生、そして世界の前提そのものを、根底から全否定するものだった。
「あ、すみません。気を悪くさせたなら謝ります。僕、ただ仕様の通りに効率を計算しただけなので……」
アレンは縮こまり、真鍮の右腕を申し訳なさそうにさすった。
「じゃあ、僕はこれで。クロムさんの工房の床掃除を頼まれているので……。エレノア様、さようなら」
アレンはペコリとお辞儀をすると、そそくさと図書室を後にした。
彼には、エレノアと議論をする気も、大教会を言い負かす気も、これっぽっちもなかった。ただ、早く帰って、工房のボロい魔導コンロで温めたスープを飲みたい。その頭の中は、どこまでも平穏な「現場の日常」で占められていた。
一人残された閲覧席で、エレノアは激しく上下する呼吸を整えながら、アレンの残していった言葉を睨みつけていた。
「……間違いよ。あんな平民の、独学の保守屋の言うことなんて、絶対に技術的な間違い。今から私が、私の理性(頭脳)で、あいつの言葉が『致命的なエラー』であることを完璧に証明して見せるわ」
エレノアは自尊心と理性を総動員し、猛然と魔導ノートを開いた。
アレンが指摘した「神聖なる十七節の祈祷」の迂回ループ。それがどれほど神聖で、どれほど不可欠なものであるかを数学的に証明するため、彼女は独自の魔力計算式を展開し始めた。
アレンの理論を完全にクラッシュ(否定)するための、天才による検証の開始だった。
カチ、カチ、カチ、と大図書室の時計が時を刻む。
夜が更け、周囲の学生が全員立ち去っても、エレノアは狂ったようにペンを動かし続けた。
(ここで魔力を減衰させるのは、術式の暴走を防ぐための安全マージンのはずよ。だからアレンの言う『ストレートなインジェクション』なんてやったら、回路が焼き切れて――)
カリカリカリカリ……。
計算式が、ノートを埋め尽くしていく。
しかし、解(答え)に近づくたびに、エレノアの指先が、目に見えてガタガタと震え始めた。
「……嘘。そんな、はずは」
エレノアの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
どれだけ否定しようとしても、どれだけ大教会の正しさを証明しようとしても、彼女自身の圧倒的な知性が、アレンの言葉の「完全なる、絶対的な正しさ」を、残酷なまでに導き出してしまうのだ。
アレンの言う通り、その『神聖なる祈祷』のループを排除し、回路を最短ルートで繋ぎ直した場合。
魔力効率は、正確に1024倍に跳ね上がる。
出力の安定性は、無限大。
暴走の危険性は――ゼロ。
大教会が「神聖なる奇跡」と称していた複雑な呪文は、暴走を防ぐための安全装置などではなかった。
民衆に構造を悟らせないため、そして大量の魔力を持つ『貴族』でなければ発動できないように、あえて、わざと(・・・)、システムに仕込まれた「利権のプロテクト(暗号化)」に過ぎなかった。
「じゃあ……今までの、私たちの文明は何だったの……?」
エレノアの美しい瞳から、光が消えていく。
アレンの間違いを証明しようとすればするほど、現実がアレンの正しさを証明してしまう。
世界が神聖視してきた魔法体系が、ただの「既得権益を守るためにわざと非効率にされたゴミ(レガシーコード)」として、彼女の脳内でゲシュタルト崩壊を起こしていく。
「世界の方が……システムそのものが、最初から狂っていたというの……?」
ガタガタと震える手で、エレノアはアレンの言葉が書き込まれたノートを、狂おしいほど強く抱きしめた。
彼女の誇り高き知性は、アレンという「正常な劇薬」に触れたことで、自らの理性によって内側から破壊され、引き返せない領域へと――「思想の汚染」へと、深く、深く、沈み込んでいくのだった。
同じ頃。学園の教官室の一角。
昼間の演習場での「平民たちのボロコンロの無詠唱最適化」の報告書を前に、中堅の魔導技術官たちが、顔を真っ青にして密かに声を潜め合っていた。
「……おい、この報告書は本当か? 平民のガキが、工具一つで聖印の回路を弄り、出力を跳ね上げただと?」
「ああ。現場にいた複数の教師が確認している。……邪悪な呪いや禁忌の類ではない。ただの、圧倒的に効率的な『基盤の繋ぎ直し』だ」
「馬鹿な……! そんなものが広まってみろ。大教会の聖性も、我々貴族の優位性も、一瞬で瓦解するぞ……!」
彼らはまだ、アレンを「世界を滅ぼす魔王」だとは思っていなかった。戦闘力で言えば、ただの平民の学生だ。
だが彼らが本能的に恐れたのは、アレンが持っている**「既得権にとって最悪の正論」**だった。
「……上層部(国家)へはどう報告する?」
「馬鹿者が、こんな不穏なログ、そのまま上げられるか! 世論がパニックになる。一度、この報告書は『平民の悪質な悪戯』として握り潰せ。その上で……」
技術官の一人が、冷酷な目で声を落とした。
「夜陰に乗じて、我が家の息がかかった隠密(暗殺者)を動かす。戦力値など測るまでもない、ただの平民のガキだ。不気味な真鍮の右腕ごと、物理的に処理すれば、世界の正常は保たれる」
国家側は、まだアレンという災害の「本当の恐ろしさ」を理解していなかった。
ただの不都合な変人を、いつも通り裏で処理する。その程度の、安易なシステムメンテナンスのつもりだった。
彼らはまだ知らない。
アレンという存在は、物理的に排除しようと接触した瞬間に、その接触した防衛システム(隠密)すらも内側からフリーズさせる、世界OSにとっての「理解不能なバグ」そのものであるということを。
アレン自身は、そんな世界のきな臭い動きなど露知らず、今頃は工房の床をピカピカに磨き上げ、クロムが作った無骨なスープをお代わりして笑っているというのに。
アレンの圧倒的な無害さを置き去りにしたまま、エレノアの知性が割れ、国家の防衛本能が静かに狂い始める。
破滅へのカウントダウンは、まだ誰の耳にも届かないほど静かに、しかし確実にそのテンポを速めていくのだった。
(第10話・了 / 次回「第11話:見えないバグの足音」へ続く)




