第9話:魔導実技のインジェクション
王立魔導学園の広大な第一演習場には、午後の瑞々しい太陽の光が降り注いでいた。
今日の授業は、高等部合同の『魔導実技』。
白亜の石畳で囲まれた演習場の中央では、色鮮やかな刺繍が施された高級な魔導ローブを纏う貴族の生徒たち、自身の優位性を誇示するように、大仰な身振りと共に長い詠唱を響かせていた。
「――集え、大気の理、我が血脈の呼び声に応え、燃え盛る劫火の連続体をここに展開せよ! 『爆炎球』!」
ドガァァン! と派手な音を立てて、演習用の鉄標的に炎が炸裂する。
周囲の上級貴族の生徒たちから「おお、さすがはローガン公爵家だ」「なんと神聖で美しい魔力だ!」と、ため息混じりの称賛が沸き起こった。
この国において、魔法とは「どれだけ多くの魔力を注ぎ込み、どれだけ難解な呪文を過不足なく唱えられるか」という、血統と権威の証明そのものだった。
そんな中、演習場の片隅、平民出身の生徒たちが集まる一角で、アレンは一人、地面に座り込んで自身の真鍮の右腕を点検していた。
「アレン先輩……あの、ちょっとお聞きしてもいいですか?」
声をかけてきたのは、いつも孤立している下級生の平民、ハンスだった。
彼の腕には、実技用の支給品である、薄汚れた『初級点火魔導コンロ』が抱えられていた。
「どうしたの、ハンスくん」
「これ、さっきからどれだけ呪文を唱えても、火種すら出なくて……。先生に見せたら、『平民の汚い魔力では、神聖な魔導具が拒絶反応を起こしているんだ。新しい触媒(高価な宝石)を買い直せ』って言われてしまって……」
ハンスは泣きそうな顔で俯いていた。
アレンは優しく微笑むと、「ちょっと見せてね」と言って、そのボロい魔導コンロを受け取った。
アレンの『デバッガー・アイ』が、コンロの内部を透過する。
そこにあったのは、「平民の魔力が汚い」などという抽象的な呪いでは断じてなかった。
(……あ、これ、ひどいな)
本来なら、純粋な熱量を発生させるだけの単純な道具のはずなのに、内部の基盤には「大教会の承認印がなければ魔力を通さない」という無駄な認証パッチが何重にも張り巡らされ、さらに「詠唱のイントネーションが少しでもズレたらエラーを起こす」という、お節介な無限ループ処理が組み込まれていた。
ハンスの魔法が発動しなかったのは、ただ、経年劣化でその「無駄な認証パッチ」の接続が物理的に緩み、エラーログ(カーネルパニック)を起こしてフリーズしていたからだった。
「ハンスくん、これね、ハンスくんの魔力が悪いんじゃないよ。ただの……ちょっとした『設定ミス』だ。はい、一瞬だけ持っててね」
アレンは真鍮の右腕の指先をチチチ……と音を立てて小さな精密ドライバーへと変形させ、コンロの底面にある、誰も触れてはならないとされる「聖印のネジ」に躊躇なく差し込んだ。
カチ、カチ。
アレンがやったのは、魔法の行使ではない。ただの「配線の繋ぎ直し(インジェクション)」だ。内部にある大教会の無駄なプロテクトコードを物理的にバイパスし、魔力が最短ルートで熱量へと変換されるように整えただけ。
「はい、直ったよ。ちょっと魔力を流してみて」
「え? あ、はい……。――『灯れ』」
ハンスが、教えられた長い詠唱ではなく、ただ短く呟きながら魔力を込めた。
その瞬間。
ボウッ!!!
コンロの火口から、これまでに見たこともないほど、極めて純粋で、一点のブレもない完璧な青い業火が噴き上がった。その熱量は、先ほど貴族の生徒が莫大な魔力を消費して放った『爆炎球』の芯の温度を、遥かに凌駕していた。
「わ、わああえ!? すごい! 軽い……魔力が、ほんの少ししか吸われないのに、こんなに強い火が……!」
ハンスの目が、驚愕と歓喜でひっくり返る。
周囲の平民の生徒たちも、その劇的な「結果」に驚愕し、ガタガタと立ち上がってアレンの元へと集まってきた。
「おい、今の見たか!? 詠唱を全部すっ飛ばしたぞ!?」
「アレン先輩、俺のコンロも見てください! ずっと調子が悪いんです!」
「あ、順番にね。暴走すると危ないから、無駄なループ処理を消して、導線をシンプルにするだけだからね……」
アレンは困ったように笑いながら、平民たちのボロい魔導具を次々と受け取り、真鍮の右腕でカチ、カチ、とネジを回していく。アレンにとっては、ただのボランティア。お礼にハンスから「実家から送られてきた干し肉」を貰って、「今日のスープの具にしよう」と呑気に喜んでいるだけだった。
しかし。
演習場の特等席の長椅子から、その様子をじっと見つめていたエレノア・ローゼンベルクの瞳からは、完全に「お嬢様の余裕」が消え失せていた。
彼女の手元には、アレンの真鍮の右腕の挙動を、自身の圧倒的な知性でトレースした魔導ノートが開かれていた。
アレンがただ「直している」だけのシンプルな光景。それが、エレノアという最上級の頭脳を通過した瞬間、世界の前提をひっくり返す恐怖のコードへと翻訳され始めていた。
(……そんなはずはないわ)
エレノアは、ペンを握る指先が僅かに震えるのを自覚した。
胸の奥で、激しいアラートが鳴り響いている。
(大教会が『神聖な儀式』と称していたあの長い詠唱は、ただの暗号化……? 民衆に構造を悟らせないための、意図的な偽装コードだというの……? もしアレンの言う通り、魔法がこれほどシンプルなものだとしたら……貴族の血統も、大教会の聖性も、すべてはただの――)
「――そんなはずはない(・・・・・・・・・)」
エレノアは、唇を噛んで心の中で激しく抵抗した。
「そんなはずはない」と言い切れない自分が、脳のどこかにいた。アレンの目の前で噴き上がった青い業火という「現実の合理性」が、彼女のこれまで学んできた魔法理論のすべてを、残酷なまでに否定してくる。
昨日、図書室で「変わった人」と一蹴したはずの平民の少年。その少年が回したネジの音が、世界の鎖をパキパキと引きちぎる不気味な音に聞こえて、彼女の背中に冷たい汗が伝った。
(認めないわ。あいつが正しいなんて、絶対に認めない。……今夜、大教会の仕様書をすべて私が再計算して、あの男の『エラー』を完璧に証明して見せる……!)
エレノアの瞳に、知性の敗北を拒絶する、狂気的なまでの執念の炎が灯った。
これが、彼女の理性が壊れていく、最初の滑らかな一段階だった。
外側では、平民たちの歓声。
そして、そのさらに外側の教官席で、授業を監視していた貴族出身の中堅教師たちが、顔面を真っ青に染めてガタガタと震えていた。
「な、なんだあの挙動は……。呪文も唱えず、聖印を工具で弄り、出力を跳ね上げただと……?」
「馬鹿な……! あんなことが許されれば、我々貴族の優位性は……一体どうなる……!?」
教師たちの脳裏に走ったのは、純粋な「本能的恐怖」だった。
アレンが何か邪悪な呪いや魔王の力を使ったなら、まだ『異端審問』として処刑すれば済む。だが、アレンがやったのは、誰の目にも明らかな「圧倒的な正論(効率化)」だった。自分たちが神聖視してきた特権が、ただの「保守不足のゴミ」として、平民たちの前で暴かれていく。
「……あの平民のガキ(アレン)は、生かしておいてはならん」
「ああ、早急に、我が一族の隠密部隊を動かせ。夜陰に乗じて、あの不気味な真鍮の右腕ごと、物理的に処理するのだ」
貴族たちは本能的に察していた。アレンという存在をこれ以上放置すれば、戦力云々の話ではなく、自分たちの拠って立つ社会システムそのものが、内側からバグを起こして消滅するということを。
放課後を告げる鐘の音が、夕暮れの演習場に静かに鳴り響く。
アレンは「あ、もうこんな時間か」と鞄を担ぐと、下級生たちに手を振って、いつも通りにクロムの工房へと続く帰路を急いだ。
ポケットの中で、ハンスにもらった干し肉が少しだけ揺れる。
「今日のスープ、少し多めに作れるな」
それだけを考えていた。
――その瞬間、演習場のどこかで、誰かが息を呑んだ音がした。
次の瞬間、金属が床に落ちる音が、遅れて響いた。
アレンは、気づかない。
(第9話・了 / 次回「第10話:図書室のデバッガーたち」へ続く)




