第8.5話:平穏なデバッグと図書室の挨拶
王立魔導学園の朝は、驚くほど静かに、そしていつも通りに始まる。
白亜の校舎へと続く並木道を、きらびやかな馬車で登校する上級貴族の生徒たち。その傍らを、平民の特待生たちが教科書を抱えて足早に通り過ぎていく。そこにあるのは、この国では空気と同じくらい当たり前の、ごく「普通の格差」だった。
「――おい、そこの平民。ちょっと待ちたまえ」
中庭の噴水広場でアレンが歩いていると、いかにも良家の子息といった風貌の、縦巻き髪の女子生徒から声をかけられた。彼女の手には、小さな真鍮製の『装飾用・手鏡型魔導灯』が握られている。
「はい、何か御用でしょうか?」
アレンが足を止めると、彼女は傲慢というよりは、ただ純粋に「平民を便利屋として使う」のが当然という調子で、不機嫌そうに手鏡を差し出してきた。
「これ、さっきから灯りの魔術がうまく同期しないのよ。中の魔力結晶を最新の上級品に交換したばかりなのに、薄暗いまま。あなた、いつも工具箱を持ち歩いている職人の特待生でしょう? 授業が始まる前に、少し煤でも払っておきなさい」
「あ、いいですよ。見せてください」
アレンは嫌な顔一つせず、いつものように穏やかに微笑んで手鏡を受け取った。
彼にとっては、貴族に命令されたからではなく、ただ「不調な機械があるから直す」という、それだけの理由だった。
真鍮の右腕の指先を小さなピンに変形させ、手鏡の裏蓋を外す。
アレンの『デバッガー・アイ』が覗いた内部回路は、やはり無駄が多かったが、今は世界を揺るがすような大掛かりなバグがあるわけではない。
(あ、なるほど……。新しい結晶の出力規格に対して、元からある配線の導線が細すぎるんだ。だから電力が途中で詰まって、熱に逃げちゃってる。典型的な『仕様の不一致』だね)
アレンは工具箱から小さなヤスリを取り出すと、接続部の端子をほんの少しだけ削り、魔力が引っかかりなく流れるようにバイパスを整えた。カチ、と裏蓋を閉める。
「はい、直りましたよ。試してみてください」
「えっ、もう? ……――『灯れ(ルクス)』」
彼女が半信疑で呟くと、手鏡から、柔らかく均一な、とても美しい光がぽうっと溢れ出した。以前のようなチラつきも、不自然な発熱も一切ない。
「あら……。随分と手際が良いのね。助かったわ」
彼女は少しだけ驚いたように目を見張ったが、それ以上の深い興味を持つことも、その異常性に気づくこともなく、手鏡を鞄にしまって優雅に去っていった。
アレンもまた、「どういたしまして」と小さく頭を下げ、自分の教室へと歩き出す。
これが、今の学園の「普通」だった。
アレンのやっていることは、まだ誰にとっても「器用な平民の、ちょっとした修理」の範疇を出ていない。世界はまだ、何も壊れていなかった。
お昼休み。
アレンは賑やかな食堂を避け、静かな大図書室の片隅にある閲覧席にいた。
木製の机の上に、クロムの工房で作ってもらった硬い黒パンと、小さな水筒を並べる。
「いただきます」
パンを齧り、水筒の白湯を飲む。派手さはないが、よく噛めば小麦の素朴な味がして美味しい。アレンはこの静かで、何も起きない「無風の時間」が大好きだった。
「――ずいぶんと質素な食事をしているのね」
不意に、頭上から鈴を転がすような、しかし凛とした声が降ってきた。
驚いてアレンが顔を上げると、そこには燃えるような紅い髪を揺らし、数冊の分厚い魔導書を抱えたエレノア・ローゼンベルクが立っていた。
「あ、エレノア様。こんにちは」
アレンは慌てて口の端のパン屑を拭い、席を立とうとした。学園最高の天才であり、公爵家の令嬢。平民の自分が気安く話していい相手ではないことは、アレンも弁えている。
しかし、エレノアは美しい手でそれを制し、アレンの対面の席に静かに腰を下ろした。
「座ったままでいいわ。少し、ね。先日の入学実技試験で、試験官の結界の『接続不良』を一瞬で見抜いたという、妙な右腕を持つ平民がいると聞いて、少し気になっただけよ」
エレノアの瞳は、冷徹で、そして深い知性に満ちていた。
今の彼女はまだ、世界に絶望してもいなければ、革命を志してもいない。ただ、自分の知らない「妙な技術」を持つアレンという存在に対して、天才特有の、純粋で軽い「知的好奇心」を抱いているだけだった。
「不気味だなんて、人聞きが悪いです……。僕はただ、あの結界の端子のネジが緩んでいて、魔力が漏れてるのが見えたから、危ないなと思って締めただけなんですけど」
アレンは困ったように真鍮の右腕を縮めた。
「ネジ、ね。魔術をそんな物理的な工具の言葉で表現する人間を、私は初めて見たわ。大教会の仕様書には、そんな一文はどこにも存在しない。魔法とは、神聖なる血脈と、大いなる自然の理による奇跡よ。それをあなたのような平民が、さも『壊れた家具』のように扱うのが、少し奇妙に思えたの」
エレノアの言葉は、貴族のトップとしての、至極まっとうな「常識」だった。
アレンのやっていることは、彼女の目にはまだ「異端の変人の、おかしな屁理屈」に見えている。
「うーん、でも、どれだけ神聖な魔法でも、使っているのは僕たち人間ですし、形がある以上はいつか摩耗して壊れちゃうと思うんです。壊れたら、誰かが直さなきゃ危ないですから」
アレンは黒パンの最後のひとかけらを口に放り込み、穏やかに、しかし職人としての揺るぎない「普通」を口にした。
「……ふうん。まあ、世の中には変わった考え方をする人もいるものね」
エレノアはそれ以上アレンを追及することなく、持ってきた魔導書を開き、アレンへの興味を綺麗に切り離したかのように優雅に視線を落とした。
「そうですね。エレノア様みたいな頭の良い人が直してくれるなら、この学園の古い設備も、もっと使いやすくなると思います。……それじゃ、僕は掃除当番があるので、これで失礼します」
アレンはペコリとお辞儀をして、空になった水筒を鞄に詰めると、足早に図書室を後にした。
「……」
エレノアはアレンの去った通路を一度だけ見やり、すぐに自分の魔導書の世界へと戻っていった。
アレンはただ、午後からの教室の床掃除を真面目にこなし、ハンスたち平民の友人と「今日の小テスト、難しかったね」と笑い合い、放課後はクロムの工房へ直行して、油にまみれて時計のネジを磨いた。
誰もアレンを恐れていない。
誰も世界の欺瞞に気づいていない。
アレンも、エレノアも、教師たちも、ただ「いつも通りの日常」をそれぞれの場所で平穏に過ごしている。
しかし、この何事もない静かな無風の時間が、アレンという「圧倒的な正常性」のスタック(積み上げ)となり、やがて世界システムが耐えきれずにパキパキと音を立てて割れ始める、あの悍ましい崩壊のグラデーションへと、ゆっくりと、しかし確実に繋がっていくのだった。
(第8.5話・了 / 次回「第9話:魔導実技のインジェクション」へ続く)




