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To You  作者: いなり
2/6

饒舌で、臆病で、傲慢で、魔法使いで。

森の中に、――の鋭い声が響く。


穏やかに目を閉じていた魔物たちはそれに顔を見合わせ、次いで聞こえる主人の情けない声にやれやれ、と首を振った。



「おい、何度言ったらわかるんだ!」


「ごめんってば、怒らないでおくれよぉ」


「だったら行動で示せ、このボケジジイ」


「ジジィ?!ジジィって言った?!」



私の弟子が可愛くない。

窓を開け、こちらを伺う魔物たちに嘆くカルロに、――ははぁ、とこめかみに親指を当てため息をつく。


この怠惰な魔法使いと同居を初めて数ヶ月。

否が応でも身に染みて感じている、この魔法使いの非人間的な生活に、――は日々ストレスを募らせていた。



まずこの男は、規則正しい起床時間と就寝時間というものを知らない。



「何時に起きようが、何時に寝ようが構わないがな、俺は規則正しい生活をしたいんだ!夜中に馬鹿でかい音を立てて実験をするのはやめろと何回言えばわかる」


「ごめんってば…そんなに怒らなくたっていいだろぉ」


「何回目だと思ってる。」



ふん、と鼻を鳴らすーーに、カルロはヒィ、と涙目になりながらモゾモゾと布団から抜け出し、項垂れる。

弟子にするだなんだとほざきながら、その実――に叱られてばかりのカルロに、森から様子を伺っていた魔物たちははぁ、とため息をついた。



――主人、大丈夫かなーー

――大丈夫でしょ、あぁいう人だもんーー

――あれが主人だなんて情けないな…――

――あれでも魔法はピカイチだからーー

――でも、久しぶりじゃないかなーー


虹色の瞳を持つ蛇が、ちろり、と舌を出し上を見上げる。

久しぶりだ、と穏やかに笑った己の旧友の姿を瞳に映し、何がだ、と尋ねた。


梟の形をしたその魔物は虹色の瞳を見つめ、夜に溶け込みそうなほど黒く照り輝く羽をばさり、と羽ばたかせた。



――あんな風に生き生きとした主人を見るのは、久しぶりじゃないかーー



梟――主人の言葉を用いればノックスの言葉に、蛇は笑う。

そうだな、と頷くと未だーーに叱られている主人を見上げた。



「機嫌を直しておくれよ、少年」


「あとあんた、また魔法をほったらかしにして部屋を移動しただろ。おかげで俺は朝から死にかけた」



ほらみろ、と若干焦げ、湿っている髪の毛を指差すーーにカルロは、あはは、と引き攣った笑みを浮かべる。

どの魔法だ、と視線を彷徨かせるカルロに、――はため息をつくと腰に手を当て項垂れた。



これのどこが偉大なる大魔法使いだというのだろうか。



「心当たりがあるなら早く魔法を回収してくれ。毎回燃やされてちゃかなわない。あんたを殺す前に俺が殺されそうだ。」


「あーそっか、昨日は炎魔法の研究をしていたんだった…!幻影魔法と組み合わせたいなと思ってたんだけど、その感じだと失敗だったみたいだね」


「みたいだね、じゃないんだが。おかげで丸焼きにされるところだった」



――の恨みがましそうな顔にカルロはごめんごめん、と両手を合わせベッドから飛び降りる。

――の焦げた髪の毛を見やると片手を伸ばし、青い花を咲かせた。


――はのけぞり、カルロを睨みつける。



「何するつもりだ」


「ひどいな、元に戻すだけだよ」



カルロの酷く傷ついた声に、――ははぁ、とため息をついて体を元に戻す。

青い花が髪の毛に触れるのを感じながら、カルロの瞳を少し見やった。


カルロは薄く微笑みながらその視線に答え、首を傾げる。



「炎に巻き込まれたのは分かったけど、どうやって鎮火したんだい?私が教えた何かを使ったのかな?」


「仕方なくだ。」



不貞腐れたように答えるーーにカルロはケラケラと笑い、とん、と床を蹴った。

ふわり、と灰褐色の髪が揺蕩い、空気を揺らす。

清涼な香りはーーの鼻先をくすぐり、カルロが近づいてきたのだとーーはわかりのけぞった。


ふふん、と得意げなカルロにーーは顰めっ面を返す。



「水魔法でも使ったのかい?あれは制御が難しいからね、部屋が水浸しにでもなったんじゃないか?」


「…」



視線を逸らすーーにカルロは上出来だ、と笑うとーーの髪の毛を無遠慮にかき乱した。



「炎に対して水魔法を咄嗟に使えただけでも合格点だ。一度しか教えていないのによくできたね。」


「…」


「そう不貞腐れた顔をしない。制御方法を教えなかった私のことを恨む気持ちはよぉくわかるが、聞いて驚くなよ、私が弟子を取るのはこれで二人目だ。」



誇らしげにいうことではないだろう。

――は視線でそう訴えながら、ため息をつく。

カルロはえへへ、とわざとらしく笑うと寝巻き姿のまま本棚から一冊の本を取り出した。



「二人目と言っても、一人目は魔導書を勝手に読んでは勝手に習得していくタイプの弟子だったからさ、ちゃんと教えたことないんだよね。まぁ水魔法の制御は練習あるのみ、みたいなところもあるし、手始めに目標物にきちんと飛ばせるようになるところからかなぁ」


「勝手に話を進めているところ悪いが、俺はあんたから魔法を習得するつもりはない」


「おやおや、でも君の目的は私を殺すことだろう?私から教わるのが一番手っ取り早いと思うけどね。」



意地悪く尋ねるカルロは、けれどーーの瞳を見ることはせず、本を読んでいるふりをして、黄金の瞳を伏せる。

――はちっと舌打ちをすると、存外拗ねたような声音で言葉を返した。



「それじゃあ俺はあんたを超えることはできない。」



――の言葉にカルロはふは、と笑う。



「んふふ、大人びていてもやはり君はまだ子供だね」



案外可愛いところがあるじゃないか、と微笑むカルロにーーは腰に手を当てる。


よしよし、と頭を撫でてくるカルロにーーはうんざりしたようにため息をつくと後ろに飛び去りながら憎まれ口を叩いた。



「あんた、本当にどうしようもない人間だな…」



――のうんざりとしたような声に、カルロはなぜかきょとん、と目を丸くする。

そしてあはは、と大きく笑うとそうだね、と肯定した。



「そう、私はどうしようもない人間なんだ!」



なぜか嬉しそうなカルロにーーは額に手を当て、話にならないと首を振る。

カルロはきゃらきゃらと笑いながらーーの前にたち、嬉しそうに言葉を紡いだ。



「言い忘れていた、おはよう、少年」


「…おはよう」



ぶっきらぼうな言葉は、カルロの笑みを深くする。

――はその笑みから逃げるように踵を返すと、カルロの部屋を出た。

自身の願いたいように構造の変わるこの屋敷に、――は未だに慣れない。

とりあえず朝食を用意しよう、と瞬きをすれば目の前に木製の扉が現れ、――は恐る恐るドアノブを捻った。


目の前に現れた調理場に、――はよくできたものだ、と何回目かの感動を心に宿しながら部屋を横切る。

食糧庫への扉を開きながら、さて、と小さく呟くと垂れてきた横髪を片手で払った。



「にんじん、じゃがいも、玉ねぎ…それに獣肉…スープにでもするか」



――は誰に聞かされるでもなくそう口に出すと、片手を伸ばした。

指先が微かに震え、無から有が生み出される。

ガラス細工のように透き通った枝葉が伸ばされ、色のない花が咲き誇った。


花によって、食糧庫から食材が選び出され、宙に浮かぶ。


ガラス細工のようなそれは見た目の通り柔いようで、――は一瞬顔を顰めると、ちっと舌打ちをした。


ぱりん、という音と共に、魔法が崩れる。



「私の魔法の真似か。」



静かな声が響く。

――ははぁ、とため息をつくとどうせ先ほどから見ていたであろういけ好かない魔法使いの方を見た。


黄金の瞳は、思ったよりも真剣な色を乗せて、――を見ている。

――はその瞳から逃れるように手のひらを握りしめると、取り出したままの食材を手に取った。


カルロは黙ったまま、それを見つめる。



「突っ立ってるだけなら、何か手伝ってくれないか」


「あぁ、うん」



――の言葉に生返事をし、カルロは徐にーーに近づく。

そして何かに気づいたようにあ、と大きく手を叩いた。



「なんだよ!」



耳元で手を叩かれたーーはのけぞり、カルロを睨みつける。

それにカルロはごめんごめん、と笑うとにんじんをいたずらに手に取りながら、――の方を見た。



「少年、魔法は人それぞれ形が違うものだ。私の真似をしても上達することはないよ。それに君は私のことが嫌いなんだから、私の真似をしてもうまくいくはずもない。」



最初に言うべきだった、と悔やむように呟くカルロに、――は視線を逸らす。

水の入った桶にじゃがいもを投げ入れ、汚れを力任せに落としながら、言葉を吐き捨てた。



「別に真似はしていない」


「ならなぜ、花を作り出した?魔法使いはは杖を使う者がほとんどだし、そうじゃなくても花以外の選択肢がある」


「俺になんと言って欲しいんだ、カルロ・ローレンス」



――はじゃがいもをまな板の上に置き、カルロとじゃがいもとにんじんを交換しながらーーはカルロの瞳を見やった。

カルロは柔く微笑みながらじゃがいもを受け取り、指先をくるくると宙にまわし、器用にじゃがいもの皮をむく。



「何も?私はただ君が私を好きになって、魔法も魔法使いも好きになってくれたら嬉しいだけさ」


「…俺が魔法を好きになれば、自分の復讐が果たされるからか?」



――はにんじんの皮を包丁で剥きながら、綺麗に皮の剥かれたじゃがいもに目をやる。

カルロはふ、と笑うとそうだね、と穏やかに肯定をした。



「それもあるけれど、やっぱり私は、君が魔法を憎み続けたまま生きて欲しくないと思うんだよ。」



カルロはどう切るの、とじゃがいもを片手に尋ね、――に笑いかけた。

――は細切り、と答え視線を逸らす。



魔法を、好きになって欲しい。

そんな馬鹿げた思いが、この男の本心だとはとても思えない。



――の胡乱げな表情に気付いたのかカルロはひどいなぁ、と笑うと歌うような調子でじゃがいもを切り、口を開いた。



「私はね、少年。魔法は、願いだと思っているんだ。」



穏やかな声音は、柔らかく空気を反響する。

――はにんじんをザクザクと包丁で切りながら、それをぼんやりと聞き流した。



「願いは人それぞれだ。だからこそ魔法は人によって色も形も、そこに込められた思いも違っていく。ただ一人の息子の病気を治すために治療魔法を編み続けた魔法使いもいれば、戦いのために攻撃魔法を磨き続けた魔法使いもいる。かと思えば、魔法を洗練させることなく、日常生活でちょっと便利になるくらいの魔法で、満足する魔法使いだっていた。私はそういう魔法使いのこと、そして魔法のことを愛している。私は信じているんだ。魔法は誰かの願いを叶えるものであると、信じていたい。」



だってその方が素敵だろう。

カルロは笑い、じゃがいもを鍋に投げ入れる。

コロコロと音を立てるそれはきちんと鍋の中に収まると、ついでーーのにんじんが投げ込まれ、純白に橙が散った。



「君の願いはどんな形をしているんだろうね。」



――は玉ねぎを右手で弄びながら、顔を上げる。

カルロの顔を見やり、瞳を細めた。



「あんたが花の形をした魔法を使うのは、それが願いだからか?」



――の言葉に、カルロはぴたりと動きを止める。

そしてそうだね、と掠れた声を出すと力なく笑い、――の手の中にある玉ねぎを一瞬でみじん切りにしてみせた。


黄金の瞳は頼りなく瞬く。



「だとしたら、私の魔法は永遠に未完成なんだろうね。」


「…」



――は手を止め、カルロの瞳をじっと見る。

そして少し首を傾げると、心底不思議そうに呟いた。



「だからなんだ?願いは叶わないから願いなんだろう?」



――の言葉は、拙くカルロの耳に響く。

カルロは愛おしそうに目を細めると、徐にーーに手を伸ばし髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き回した。

遠慮のないそれは緩みかかっていた髪紐まで解き、――は眉を顰める。



「おいやめ」


「少年。」



――の言葉をカルロが遮り、――は胡乱げに見上げる。

カルロはそれにふ、と笑みをこぼすとくしゃり、と横の髪ごとーーの頬をすくった。


ぴくりと肩は震え、カルロの掌から逃げるように捩った体は存外強い力で押さえつけられる。

黄金は細く薄まった。



「願いは叶えるものだよ。だから魔法は完成するんだ。その人だけの魔法が、完成する。しなければならない。」



カルロはーーに向かって微笑み、髪紐を手に取り背後に回る。

――は身をこわばらせやめろ、と口を開いたが、カルロはそれに肩に手を置いて宥めるように2回叩いた。



「君にはまだ、早かったかな。」



柔らかな声音は、――の鼓膜をくすぐる。

揶揄うような気配も、馬鹿にするような気配もないその声音は、ただ愛おしそうに歪められ、――はどうすることもできずに固まった。


肩甲骨のあたりまで伸びた黒髪がカルロの暖かな手のひらによって持ち上げられ、首のあたりが一気に涼しくなる。



「きっと君にもいつかわかる。君にも、願いがあるはずだから」



はっきりと言い切るカルロに、――はそれを否定しようと幾つも言葉を思い浮かべたが、それを口にすることはできずになすがままになった。


火にかけることなく鍋の中に鎮座したままのにんじんとじゃがいも、そして玉ねぎは沈黙を返す。

ヌメヌメと表面を反射させる獣肉に目をやると、――はまとめられた黒髪を一度振ってから包丁を手に取った。



「さて、スープと後はパンでいいかな?バターとジャム、どちらにする?」



カルロはスタスタと部屋を横切り、ひょいひょいと魔法でパンを一斤、バターとジャムの瓶を浮かせる。

どちらでも、と視線で答えたーーにカルロは嬉しそうな顔でジャムを選ぶと、パンを一思いに分厚くきり、かまどの中に投げ入れた。


先程まで火のタネの影さえなかったかまどの中からパチパチと火の音が鳴り、香ばしい匂いがあたりに立ち込めた。



――はその間に獣肉を鍋に投げ入れ、調味料を適当に振っていく。

水を流し入れ、鍋に蓋をするとカルロの方に目をやった。



「…なんだい?」



カルロの意地悪げな笑みに、――は目を細める。



「炎魔法は教わっていない。」



憮然とした声にカルロは笑うと、――に近づき、後ろに立った。

滑らかな動作で肩に手を置かれ、――は身をこわばらす。


カルロは静かな動作でーーの腕を取るととん、と人差し指でーーの指先を撫でた。



「炎魔法は、水魔法とは違って制御にはなんら問題はない。逆に水魔法と違うのは、出力の仕方だ。水魔法は自身の中にある血液の流れを感じるだけでできるが、炎は感情を元にする。烈火の如くという言葉通り、怒りの際に感じる熱を放出するんだ。別に怒れと言っているわけじゃないよ、たとえばこんなふうに」



カルロの指先から青い花が伸び、――の指先に絡みつく。

ぴくり、と反応する指先を握り込めば、存外硬い感触の茎が手のひらに絡み付いた。



ついで感じる、痛みにも似た、熱。

腹の底から湧き上がるようなそれは確かに怒りと同等で、けれどひどく暖かい。



「感じるかい?これが炎魔法の核となる君だけのエネルギー源だ。魔素とも言うけれど、炎魔法はこの魔素を感じる能力がなければ扱うことはできない。水魔法とは段違いに難しい魔法だ。」



カルロの暖かな息が頬に触れる。

彼が身を乗り出したのだと分かった途端、――は反射的に拳を握りしめたが、カルロは穏やかに言葉を紡いだ。


灰褐色が、視線の先にちらつく。



「腹の底に溜まっているその熱を指先に移動させ、放出する。やってご覧。」



君ならできる。

カルロの言葉に導かれるようにして、――は腹の底に意識を向ける。

ボォ、と燃え上がるでもなくチリチリと熱を発しているそれを丁寧にすくうと、徐々に温度を失っていくのを止めるように急いで腕を伝わせた。


温度は下がり、炎は弱まる。

眉を寄せたーーにカルロは大丈夫、と笑うと安心させるようにーーの頭を撫でた。



「焦るな。君の火種は絶対に消えない。」



カルロの言葉に、すくっていた火種がバチ、と音を立て色を得る。

赤赤と燃えるその色を脳裏に描くとーーは一思いに指先から熱を放出した。



「うん、いい感じだ!」



バチ、と音が響き鍋に火がかかる。

薪に絡みつく魔法は煌々と燃え、――はどっと襲ってきた疲労に体から力を抜いた。


カルロはいいね、と笑うと炎を見やり顎に手をやる。



「まさか一発で成功するとは。さすが私の弟子だ」



君ならできる、と堂々と宣っていたくせにそんな風に言うカルロにーーは眉を顰める。

鍋の蓋を開け、中身をかき回しながら視線を逸らしたーーにカルロはヒョイ、と顔を覗き込むとはは、と顔をくしゃくしゃにして笑った。



「そんな拗ねた顔をするな!君ならできると分かっていたさ。ただ、本当にできるのとは話が違うだろ?炎魔法は常人なら習得するのに相当時間がかかる。やっぱり君には才能があるよ」


「才能があったところで、あんたを殺せるわけでもないんだろう。」


「もう、素直じゃないなぁ。嬉しい時は嬉しいでいいんだよ。私は純粋に褒めているだけさ。才能も君を構成する一つで、私が持ち得ない唯一のものなんだから」



カルロの言葉に、――はよくそこまで口が回るものだ、と呆れ半分感心半分目を細める。

綺麗事を並べることが得意なのか、または馬鹿なのか。


才能を持っていたところで、その才能を上回る才能があり、この目の前の魔法使いに勝てずに一体何人が絶望したのか、彼は一生知ることがないのだろう。


――の胡乱げな視線に気づいているのか気づいていないのか曖昧な表情でカルロは楽しそうに言葉を続ける。



「今回は私が補助してあげたからできたというところもあるし、自分の力だけでできるようになるにはもうちょっとかかるかな。水魔法の制御と共に覚えていければいいよ。炎魔法の制御は考えなくていい。」


「…制御の方法がないのか」


「まぁないね。強いて言うならば精神鍛錬。水魔法は本来体に染み付いている感覚を使っているだけだから精神鍛錬よりも物理的鍛錬が必要だけど、炎魔法は後天的に近いからね。命に関わるような高火力の炎魔法を使えるような人間は、ほぼいないし、たとえ使えたとしても一時的だ。炎魔法の制御を覚えるよりも、水魔法の制御を覚えた方がはるかに良い。出力は簡単だが、延々と自分の意図しない水魔法を使い続けるなんて、地獄だろう?炎魔法はその逆で出力は難しいがそれさえできて仕舞えば、制御は考えなくていい。そもそも威力がないからね。」



炎魔法で死ぬようなことはまずないよ、と笑うカルロにーーはそうか、と頷き煮立ってきた鍋の中身を見やる。



「水、炎、この二種類を重点的にやっていこうね。それ以外の魔法はまだ覚えなくていい。あとは基本的な鍛錬だね。集中力と、あぁ、そうだ、君に関してはこれも治さないと。」



カルロは徐にーーに手を伸ばす。

――は咄嗟にそれをかわすとついで拳を振りかぶり、カルロは危なげなく受け止めた。


パシ、と言う肌がぶつかりあう音と、放り投げられたヘラが床に落ちる音が響く。



「警戒しすぎだ。それじゃあ、手負いの獣と一緒だよ、少年。鋭い警戒心は時には必要だが、鍛錬ではリラックスすることも重要。」


「…」


「君の過去に何があったかは知らな…いやすまない、少しは知っている。が、君にとって私はそこまで警戒に値するような存在ではないと思うけれど?何に怯えているんだ、君は」



カルロの言葉に、――は黙ってヘラを拾い、水のはった桶に投げ入れる。

ばしゃ、と出力の定まらない水魔法でそれを洗い流し、もう一度手に持つとすん、と鼻を鳴らした。


焦げたような香ばしい匂いが鼻を掠め、――はカルロを見やる。



「おい、焦げてないか?」


「話を逸らさない」


「いや焦げてる」


「少年、私は真剣に話をしているんだよ」



ふん、と腕を組むカルロに話にならない、とーーは大股にカルロに近づく。

そして背後にあるかまどに手を伸ばすと案の定黒く焦げているパンを見やり、ため息をついた。

カルロはそれを隣に立って少年、といまだに声をかける。



「パンなんて今はどうでもいい、焦げを落とせば食べられるさ。それよりも、私の質問に答えなさい」


「なぜそこまで生き生きしているんだ。」


「魔法使いの師匠らしいことをしているだろう!ワクワクするぞ、こう言うのは!」



ろくな理由じゃなかった。

――はカルロにパンを取り出すように視線で訴えると鍋の火を止めるため水を出力した。


焦りか、不安か、怒りか、どちらにしろ乱れ、制御できないそれは鍋の中に飛び込む。

それをぼんやりと目で追いかけたカルロはわざとらしくため息をついた。



「あーあ、一体いつになったら朝食が食べれるんだか…」


「…」


「仕方ないなぁ」



カルロは指先から青い花を伸ばすと、鍋に向かって片目を細めた。

青い花は散り、水が空中に取り出される。



追いつくことのできないその光景に、――はゆっくりと唇を噛む。



「はい。これで食べられるはずだ。」



空中に取り出した水を桶に投げ入れると、カルロはお腹が空いた、と大きな声で言いながらパンの焦げを削ぎ落とす。

――は意味のない舌打ちをすると皿を食器棚から出し、鍋の中身をそれぞれ注いだ。



「それで、質問に答えてもらおう。君は何に怯えている?」



カルロの声が間近に響く。

――はそれを無視してスープの皿を二つ手に持つと、調理場を横切り、はじめに開けた扉の前にたった。

ドアノブのついた木製のドアだったはずのそれはーーの願いに沿うように形をなくし、扉のない空間へと姿を変える。その先にあるのは、いつも二人が使う暖炉の部屋であり、――はスープをこぼさないように慎重に運ぶと、テーブルに置いた。


カルロは水差しとコップ、そしてパンの入ったバケットと瓶を空中に浮かせながらその後に続き、キラキラと目を輝かせながら席に着く。



「美味しそうだね!よし、食事をしながらゆっくりと君の話を聞くことにしよう」


「あんた、しつこい人間だと言われることはないか?」


「しつこい人間とは言われたことはないね。」



カルロの言葉にーーは顔を顰める。

逃げるようにスープを飲もうとして、スプーンがないことに気づき立ち上がった。



「ほら、また逃げる。」



青い花が空中に咲き乱れ、音を立ててテーブルの上にスプーンが落ちる。

――はカルロの方を見ると、舌打ちをして椅子に座り直した。



万事休す。

どうやらこの男はーーを逃す気はないらしい。


――はカルロの黄金の瞳から逃れるように、水差しから水をコップに移すと不機嫌そうに口を開いた。



「なぜそこまでこだわる?」



話したくない、という姿勢を崩さないーーにカルロはあえて踏み込もうとしている。

それは今までのカルロの態度とは一線を画しており、何があっても知らないふりを突き通してきた彼にしてはあまりにも不用心な一歩であった。



カルロはーーの問いに対してスプーンを片手に取りながら、横髪をくるくると人差し指に絡め、瞳を伏せる。

いまだ着替えることもせず、生地の薄い寝巻き姿のままの彼は、少しだけ寒そうに身を捩るとサッと目を上げた。



柔らかな唇が、静かに開く。



「最初は、時間が経てば君の警戒心は薄れると思って、あえて触れなかった。触れることで君の何かが揺らぐことも面倒だったし、君の問題は君の中で解決するべきだと思ったからね。だけど、君は数ヶ月をたった今でも私に対して警戒をし続けている。疲弊し、すり減りっていく精神を放っておけるほど、私は心を忘れたわけではないよ。」


「でも、あんたには関係ないことだろう」



――は、ただ冷徹に言葉を吐く。



無遠慮にこちらに踏み入ろうとするカルロが、忌々しくて、そして腹立たしい。

この男にだけは、その権利はないはずで、この男のせいで、この身勝手な人間のせい、で。


カルロは、スプーンをスープの皿の中にひたし、それを口に含むでもなく意味もなく中身をかき混ぜる。

そしてそうだね、といつもと同じように頷きかけ、けれどそれを打ち消すように顔をあげた。



「私が、そこまで信じられないか」



愚問だった。

――は顔の一切から感情が抜け落ちることを感じながら、はっきりと答える。



「あぁ。あんたのことは、何年経とうが、何十年経とうが、信じることはできない。」



カルロはスプーンを片手で握りしめると、瞳を振るわせ、唇を薄く開く。

――はそれを他人事のように眺めながら、冷静にスプーンを手に持ち、少し冷めてしまったスープを口の中に含んだ。



信じることはできない。

この男は、この忌々しい命を作り出し、そしてその管理を放棄した。

放棄して見放したくせに、罪悪感なんていう理由で救おうと勝手に手を伸ばして、子供のわがままに付き合うかのような顔で偽善の笑みを模る。



はっきり言ってわからなかった。

なぜこの男が、今日になって踏み込もうと思ったのか、全てを壊そうとしているのか、それがわからない。



「それでも」



カルロは、掠れた声を出し、――をしっかりと見やる。

飲み込まれそうなほど眩い黄金の瞳から咄嗟にーーが視線を逸らせば、逃がさないとでも言うように滑らかな声が追いかけた。



「私は君の師匠だ。」



馬鹿のひとつ覚えのようなそれに、――はすぐさま反論する。



「それはあんたが勝手に決めたことだ。俺はあんたの弟子になるつもりはないと何回も言っているし、そもそもあんたは俺に選択肢を与えず、騙し、この屋敷に引き摺り込んだ。あんたが俺を生かすのは勝手だが、俺があんたの弟子にならないのも俺の勝手だ。」


「じゃあなぜ、最初素直私についてきたんだ。確かに私は君を騙したが、私の元から去る選択肢を消したつもりはない。」


「そうだろうな。あんたは消したつもりはなくて、こちらに選択を委ねたつもりなんだろう。」



――はテーブルの上で拳を握り締め唇を噛み締める。



「委ねてそうやってこちらに選択を与えたフリをして、俺がそれを選んだらいくつも言葉を重ねて引き留めるくせに、それを自由だと見せることだけはあんたは得意だ。」



カルロは言葉に詰まる。



彼は何度も言った。

これは自分のためだと。自分のために、かつて交わした約束のために、ーーに手を差し伸べ、自分のためにーーを利用するのだと。


どこまでも自己本位で、言い訳ばかりのその言葉から透けて見えるのは、臆病な心と、傲慢な精神だけだ。



そしてそれを知らないふりをしてやれるほど、――はカルロと短い時を過ごしたわけじゃない。

たった数ヶ月、されど数ヶ月。



嘘をつくときには、視線を逸らすカルロの癖なんて、もうわかっていた。



「カルロ・ローレンス。あんたは矛盾だらけだよ。俺に手を差し伸べたときだってそうだ。まるで俺に断られることを怯えるように、何重にも言葉を重ね、俺の判断を待った。あんたはその手を握られることを当然だと思っていながら、それを信じ切ることはできずに誤魔化して、俺に押し付けようとしている。傲慢で、未熟で、あまりに醜い。初めから選択肢などないくせに、まるで選ぶのはお前自身だとばかりに自分は高みからの見物。あんたは自分を神じゃないと言っておきながら、その実、中身はどこまでも神様気分だ、反吐が出る。」


「…」


「だがそれでも、神様気分でいるのならば、あんたは言葉を違えないと思った。あんたは嘘だけはつけなくて、それを俺は利用しようと思った。俺があんたについていったのは、俺を守ると言ったあんたの言葉がどんな形になれどあんたは完遂すると信頼したからだ。」



信用はしていない。

だが、信頼に足るものはある。



――は、スープを口に含み、視線を逸らす。

話はしまいだ、とでも言うように口をつぐめば、カルロはスプーンから手を離し、両手をテーブルの上に置いた。

震えて見えるそれにーーはただ冷静にスープを飲み干して眺めていたが、カルロは徐に視線を上げると、じゃあ、とまた言い募った。



「君を守るという言葉を信頼してもなお、君は何に怯えるんだ?」



――はカルロの問いに、ぴたりと動きを止める。

そして嘲るように息を漏らすと目を細め、わざとらしい声を出した。



「何に怯えるか、だと?」


「もし私が君を殺さなくてもかまわなかったと?私が約束を反故にしても良かったと言うのかい?」


「その可能性もあると思っている。そうなれば、ただこの場所から去るだけだ。」



何か問題でもあるのだろうか。

きっと問題しかないのだろう。

これはきっとカルロからすれば、都合の悪い言葉たちばかりだ。


彼が求めるのは、一番弟子のように魔法を愛する存在で、一番弟子が突きつける無理難題をどうにかしようとして必死になるあまり、無様な失敗を繰り返している。


無様で、滑稽で、どうしようもなく人間らしくもない失敗を。



「忘れるなよ、カルロ・ローレンス。俺はただの兵器だ。情緒だとか感情だとか、心だとかそういうまどろっこしいものはあんたが置いてきたんだ。」


「少年」



ヒュ、と空気を切り裂く音がなり、――の後ろでガチャン、と何かが落ちる音が響く。

それがカルロの放り投げたスプーンだと気づくと、――は咄嗟に立ち上がり、カルロから瞬時に距離をとった。



「訂正しろ、少年。」



カルロは静かに呟き、黄金の瞳を瞬かせる。

――は腹の底に溜まっていく苛立ちに舌打ちをすると、何が、とぶっきらぼうに返した。



カルロは常の彼に似合わず、やけに落ち着いた声で答える。



「君は兵器ではない。兵器にしたのは、人間のエゴであり、それに甘んじているのは君の怠慢だ」


「だが始まりはあんただろう。禁忌を犯し、人間を生き返らせた、それが始まりじゃないか!あんたの魔法は偉大だが、不完全だ。その証拠にこの俺に欠けたものをみろ。その目で、その耳で、はっきりとわかったはずだろう?今更何なんだ、魔法使いだなんだと、ふざけたことを抜かしやがって」



出来の悪い、怒りの発露であった。

怒りとも似つかない、不出来で、不完全で、どこまでも未熟な怒りのなり損ない。


カルロは立ち上がり、灰褐色の髪を揺らして静かに嘆息する。

――はただ彼を睨みつけたままジリジリと壁の方まで下がると、警戒心を最大限まで高めたまま、彼の挙動を見守った。


カルロは横髪をくるくると人差し指で巻きつけると、瞳を薄く閉じる。



「やはり、君は魔法使いに向いている。」



カルロの言葉は、あまりに腑抜けている。

だからその場にあった、は、という腑抜けた声を出したーーにカルロはふわりと微笑んだ。



「ならば君に問おう。君に一体何が欠けているんだい?私から見れば、君はちょっと頑固で、ひどく真面目で理屈っぽく、だが幼いままの心を持ったどこにでもいる普通の少年だ。一体何が欠けているというんだい?」



――はカルロの言葉にびくり、とまぶたを引き攣らせる。



欠けている。

ずっと、何かが欠けている。



人の心がわからない。

人の悲しみも、喜びも、何にも共感ができない。


怒りはわかる。

目の前が真っ暗になるような、腹の底から燃え上がるような、喉の奥を締め付けるようなその感情の名前を知っている。



喜びを知っている。

きっとそれは、幸福で、温かで、永遠に自分は手にできないものだと知っている。



憎しみは持っている。

この目の前の男へ、持っている。怒りよりも重量をもち、ふとすれば愛にも見えるそれを、後生大事に抱えて、腹の奥深くに溜め込み、うめいている。



欠けている。

自分は、他の人と違って、他の人間と違って、この目の前の男と違って。


あぁ、きっと誰もが持っていて、この世界に存在することの証明で、そんなものを、俺は持っていない。



「少年。目を逸らすな。」



カルロは、静かにーーの瞳を見つめる。

黄金。

腹の底に堕とし、喉の奥で窒息することを願うほどの、眩いほどの色。



「君は、喜びも、悲しみも、怒りも、憎しみも、何だって知っているはずだ。」


「知っているだけだ、わかっているだけだ。それが何になる」


「少年、私と過ごした数ヶ月は、どんなものだった。」



カルロの言葉に、――は呆然と瞳を瞬く。

唐突に放たれたその質問の意図を、図りかねた。



「…」


「私はね、少年。君との生活も悪くないって思ったよ。」



カルロは笑いながら、テーブルに手をつき、そうだろう、と彼らに語りかける。

屋敷中のものたちはそれにしゃらしゃらと笑い、主人の言葉に同意を示すと、その温かな音色は正しくーーに届いた。

――はそれに眉を顰め、後退りをして壁に背中をつけ、びくりと肩を震わせる。

青ざめて見えるーーにカルロはただ淡々と言葉を続けた。



「たった数ヶ月だ。断定するにはあまりに短かく、未来を想像するには頼りない期間だけれど、私はこの数ヶ月、幸福だった。君という存在に出会えて、また再会できて、幸せだったんだよ。たとえ君がどれだけ私を憎んでいようと、この関係が歪んでいようと、幸せだった。少年、この世界は複雑でね。どこまでも間違っている状況の中で、どこまでも正しい感情というものはあるんだ。」



カルロの言葉に、――は瞳を震わせる。

何度も何度も言葉が浮かんでは消え、結局出てきたのは、風船のように頼りない純粋な疑問だった。



「…あんたは、俺に、何を言わせたいんだ?」



――は掠れた声を出し、唇を舌で濡らす。

疑問の形を成したその言葉は、口にした瞬間に答えとなり、――は意味もなく両手を握りしめた。



もうわかっている。カルロが引き出そうとしている言葉をわかってしまって、それを認めることはできずにーーは俯いた。



別に彼と関わらなくてもよかった。

魔法が放ったらかしにされていようと、彼がいくらだらしなかろうと、放っておけばいい。

それでも彼の分の食事まで当たり前のように用意するようになったのは、彼の怠惰な生活だけからきたものではないと、わかってしまっている。



憎んでいる。

どこまでも、この男を憎んでいて、けれど太陽のように鮮烈なこの男に焦がれそうになってはうめいている。

恨んでいる。

あの日、自分を造り出したことを。あの日、自分に手を差し伸べ、選択肢を消したこと。



今になって、そんな身勝手なことを言うことを。



カルロは困ったように眉を下げ、笑う。

どこまでもずるく、優しすぎる魔法使いは、歪な心を丸ごとーーに見せつけて、恥じらうように言った。



「悪くなかった、とそう思ってもらえたなら何よりだと思うよ」



――は俯く。

はは、と掠れた笑い声を漏らすと、静かに瞳を閉じて否定の言葉を口にした。



「そんなことを思うわけがないだろう。屋敷を歩けば、あんたの放ったらかしにした魔法に引っかかって死にかける生活の、どこが悪くなかったなんて言えるって言うんだ」



あぁ、でも。

でも、もしも、言葉をつけるなら。


――君は、少しだけ捻くれているからなぁ。もっと素直に言葉にしていいんじゃないかーー

したり顔でそんなことを言ってきた男の言葉を思いだし、――は舌打ちをして、黄金の瞳を見やる。



「まぁでも、ましだったかもしれない。」



一人で過ごしていくよりは。

ずっと、ずっとマシで。



もしかしたら、これを、幸福と呼ぶのかもしれなくて。

それを知りたいと、無性に思っていて。



あなたからの贈り物を、ずっと自分は待っていて。



「そうか」



カルロは破顔して、視線を逸らす。

そうか、ともう一度言い、灰褐色の髪を揺らすとありがとう、と心底嬉しそうに言った。



「ありがとう、少年。」



少年。

――は目を閉じ、静かに息をする。


目の前の傲慢な神を見遣って、静かに名を呼んだ。



「先生」



怒りも苦しみも、憎しみも、あなたは解決されなくたって構わないと言う。それを追い求める理由がわからないと言う。

だが、その理由を一番知っているのはあなただ。



人は幸せになるために、その感情を消化しようと躍起になることを、あなたは誰よりも知っていて、そして誰よりも諦めている。



「俺に欠けているものを、あんたがくれないか。」



カルロは、――の言葉に目を丸くする。

――は自らカルロの元に近づくと、テーブルを横切り、彼の目の前に立って、もう一度言った。



「俺に欠けているものを、あんたの手で埋めてくれないか。」


「…そ、れは」



カルロは瞳を彷徨わせ、意図を図りかねるかのように唇を戦慄かせる。

それにーーは震えそうになる喉を必死で嚥下すると、掠れた声を引っ張り出した。



「名前を。」



誰も呼ばなかった。

生まれた時にはすでに目の前は真っ暗で、誰も自分のことを呼ぼうとも、探そうともしなかった。



この世界にいていいのだと、お前はこの世界に認められた存在なのだと、誰も認めてくれなかった。


そして、それをずっと待っていた。

この人にもらうことを、待っていた。



「俺に、名前を。少年ではなくて、もっと」



もっと、もっと。

――の掠れた声に、カルロは目をまたたかせ、拳を握りしめる。



「名とは、道標だ。」



灰褐色の瞳が頼りなげに揺れる。

自信なさげな黄金の瞳は、ゆらゆらと灯籠のように揺れ、輝くその色はーーを見定めようとして失敗ばかりをする。



「その名を呼ばれるたび、君はどこにいるのかを自覚し、どこにいくべきかを見定める。君の名は一生をかけて君を形造り、君を縛るものだ。」


「余計な御託はどうだっていい。」



――は手を伸ばす。

震える指先をカルロの少しだけひんやりとした指先に触れさせ、先生、とか細い声を出した。



あぁ、喉から声が出ない。

こんな時に限って、この臆病な人の背中を蹴り倒せるような、言葉が出てこない。



「俺を殺してくれよ」



カルロは目を閉じる。

そして静かにーーの肩に両手をつくと、静かに腰を曲げた。


こつ、と額がつきあい、柔らかな体温が二人の間を巡る。

どうかすると怯えてしまいそうになる自身の体を必死で両手で握りしめるーーに、カルロはゆっくりと両手を下ろすと、――の両手をとり、笑った。



「ドナート」



黄金の瞳は弾ける。

腹の底に堕としてやりたいと、その光を閉じ込めてしまいたいと思うほどの眩い光は、焦点を結ぶことさえできずに目の前で瞬く。



「神の贈り物である君には、この名がきっと相応しい。名を呼ばれるたびに君は君であることを思い出し、それは君を探す目印になる。ドナート、この名を君は気に入ってくれるだろうか」



カルロの言葉に、――は、ドナートはきゅ、と両手に力をこめ、少しだけ笑った。



あぁ、この人はどこまでも臆病で、傲慢だ。

気に入らないと言ったら、きっと何十もの言い訳が出てきて、結局こちらを丸め込もうとしてくるくせに。

表面だけは殊勝にこちらの意志を確認しようとしてくる。断られることに怯えて見せる。



傲慢で狡くて、どこまでも人らしい魔法使い。



「気に入らないって言っても、変わらないだろう?」



ドナートは憎まれ口を叩いて、カルロの肩口に額をこすりつけ、笑う。

カルロは直接見なくてもわかるほどむぅ、と唇を尖らすと拗ねたように言った。



「そんなことはない、と思う」



花の匂いがする。初めてこの男の香りを知ったその日、ゴニョゴニョとつぶやかれた何とも頼りない言葉に、ドナートは初めて声を上げて笑った。


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