第42話:国王の狂気、飢餓の魔導具
ギルガデス王国の玉座の間は、かつての華やかさが嘘のように凍りついていた。立ち並ぶ近衛兵たちの顔は土色に変わり、静寂の中に響くのは、国王が爪を噛む苛立ちに満ちた音だけだった。
「……またか。また私を捨てて、あの忌々しい香りの方へ逃げ出したのか」
国王の掠れた声が、冷たい石造りの天井に虚しく響く。内務大臣のアリウスが失脚し、外交大臣のベルナルドを自らの手で獄に繋いだ今、王の周りには真実を語る者は一人もいない。
聖女マミすらもデヴォンに留まり、数万の民が国境を越えていく。それは王にとって、自らの権威という名の四肢を一本ずつ切り落とされるような、耐え難い屈辱だった。
禁忌の鳴動:大飢餓の鐘
「レン……あの下賎な料理人め。我が領民を味で誑かし、国の根幹を奪おうとは。許さぬ。断じて許さぬぞ」
国王はふらりとした足取りで玉座を立ち、王家にのみ伝わる地下最深部の禁域へと足を踏み入れた。そこに鎮座していたのは、禍々しい黒鉄で造られた、音を奏でぬ鐘――「大飢餓の鐘」だった。
古の時代、敵国を降伏させるための兵糧攻めに用いられたとされる禁忌の魔導具。これに王の魔力を直接流し込めば、広大な土地から生命の輝きを強制的に吸い上げ、あらゆる恵みを一瞬で腐敗させる呪いが発動する。
「私に従わぬ民に、食す資格などない。空腹に喘ぎ、絶望の泥を啜りながら、私の元へ這って戻るがいい」
国王が狂気を宿した瞳で、鐘を強く叩いた。
ゴォォォォォン……。
耳には聞こえぬ不吉な衝撃波が、王国全土を駆け抜けた。その瞬間、収穫を待っていた黄金色の麦穂は墨のように萎れ、熟した果実は濁った腐汁を滴らせて地に落ちた。豊かな大地は灰色にひび割れ、家畜たちは悲痛な声を上げる力もなく倒れ伏す。王国は一瞬にして、命の気配を失った「死の土壌」へと変貌を遂げた。
強奪の進軍:略奪という名の正義
「全軍に告ぐ。直ちにデヴォンへ進軍せよ」
国王は、荒野と化した庭園を窓から見下ろし、歪んだ笑みを浮かべた。
「デヴォンには、無から食糧を生み出す魔の術があるという。それを奪うのだ。レンを捕らえ、我が王宮の地下で死ぬまで飯を炊かせ続けろ。抗う者は一人残らず、その骸を土の肥やしにせよ」
もはやこれは、国を護るための戦争ではなかった。自ら招いた飢えに狂った野獣による、命の簒奪行であった。
デヴォンの予兆
その頃、デヴォンの「天龍の食卓」の厨房では、レンが鋭い表情で窓の外の空を見つめていた。
「……空気が死んでやがる。大地の脈動が、根こそぎ奪われたな」
万象市場の端末に、これまでにない警告が赤く明滅する。
警告:周辺地域での食材調達が完全に不可能となりました。広域呪詛による大規模な環境破壊を検知しました。
「レン様、北の空が……真っ黒です。鳥たちがみんな、悲鳴を上げながら逃げていきます」
ミナが震える手でレンの服の裾を掴んだ。王国に残された数十万の民が、今まさに「飢餓」という名の処刑場に立たされている。そして、その狂気の矛先は、美食の砦であるこのデヴォンへと向けられようとしていた。
戦況報告:ギルガデス王国総攻撃
侵攻部隊: 重装騎士団、魔導師連隊、計三万人。
兵站: なし(略奪を前提とした飢餓行軍)。
目標: 相良レンの身柄確保、および権能の強奪。
「王様が国民を飢えさせてまで、俺の飯を奪いに来るってか。……笑えねえ冗談だ」
レンは静かに、しかし力強く、使い込まれたフライパンを握り締めた。




