第39話:天使のシフォンケーキ
デヴォンの「天龍の食卓」の前に広がる緊迫した空気。聖女マミは、震える手で聖杖を握りしめ、自分を誘惑する「油の香り」を必死に振り払おうとしていた。
「いいですか、レン殿。……先ほどの鶏肉は、不意打ちのようなものです。私の信仰心は、あのような脂ぎった暴力に屈するほど安っぽくはありません!」
マミの頬は赤らみ、目はわずかに潤んでいる。フライドチキンの衝撃で理性が揺らいでいるのは明白だったが、彼女は「聖女」としての最後の意地を張っていた。
「わかったよ、マミ。なら、脂っこくない『清らかなもの』なら文句はないんだな?」
レンは不敵に笑い、厨房の奥へと引っ込んだ。
神の指先と「やかん師匠」の監視
厨房では、レンが万象市場の最高級ラインを操作していた。
極・比内地鶏の卵:濃厚なコクと、シルクのようなキメを持つ卵白。
特選・極低アミロース小麦粉:口に含んだ瞬間、雪のように溶ける魔法の粉。
アルプス産・天然バニラビーンズ:天界を思わせる高貴な香り。
その時、ミナは再び全身の毛を逆立てた。
ケンタの背後に立つ、あの「白髪のやかん師匠」の霊が、今度はオーブンの目の前に移動していたからだ。
「(……ま、また来た! あの白いTシャツのおじさん、今度はオーブンの温度設定を睨みつけてる……!)」
ミナはガタガタと震えながら、柱の陰で小さくなった。師匠の霊は、抱えた銅製のやかんをコンロの上で鳴らし、完璧な予熱が行われているか厳しくチェックしている。彼にとって、製菓もまた火と温度の真剣勝負なのだ。
調理:究極のふわふわシフォンケーキ
レンは卵白を泡立て始めた。一点の曇りもないメレンゲは、まるで冬の朝に降り積もった新雪のように美しく、弾力に満ちている。そこに卵黄とバニラを合わせた生地をさっくりと混ぜ合わせ、オーブンへと滑り込ませた。
じっくりと熱が通り、生地が膨らんでいく。
厨房から漂ってきたのは、先ほどの揚げ物の暴力とは正反対の、優しく、甘く、鼻腔をそっと撫でるような「慈愛」の香りだった。
「……っ!? なんという……清らかな……」
店の外で待つマミの鼻腔を、その香りが貫く。それは彼女が教会の奥深くで嗅いできた高価な香油よりも、はるかに気高く、心を安らげる香りだった。
実食:聖女の陥落と真の救済
レンは焼き上がったシフォンケーキを型から外し、一切れ皿に載せた。生クリームすら添えない、素材の力だけで勝負する究極の一皿。
「ほら、マミ。これが俺の考える『浄化』だ。食ってみろ」
マミは吸い寄せられるように皿を受け取った。フォークを刺すと、シュワッという微かな吐息のような音が聞こえる。一口、口に運んだ瞬間――。
「あ…………っ……」
マミの体から、眩いばかりの神聖な魔力が溢れ出した。だが、それは戦闘のためではない。
噛む必要すらなかった。舌の上に乗せた瞬間、ケーキは実体を失い、甘い香りの霧となって消えていった。厳格な規律、硬いパン、冷たい水。彼女が「聖なるもの」と信じて耐えてきた苦難が、この一切れの優しさによって、すべて包み込まれていく。
「……これ……これこそが……救済です……」
マミは皿を抱えたまま、その場に膝をついた。目からは大粒の涙が溢れ、石畳を濡らす。
「神よ……私は、何を間違えていたのでしょう。こんなに温かく、優しい世界が、ここにあるというのに……っ!」




