21.奈落
桐野は徒歩で実家へ戻るとチャイムを鳴らした。
身ひとつでこの世界に戻ったため家の鍵を持っていなかったからだ。
玄関から出てきたのは見知らぬ女性だった。
車庫には見覚えのない車が止まっている。四十代くらいのその女性の後ろに見える部屋からは、彼女の家族らしき人がこちらを窺っていた。
玄関の内装も自分の記憶には無いものになっていた。
「あのう、どちら様でしょうか?」
桐野はまだ肩にダガーを刺していたため、女性はそこに目が釘付けになっている。
「トリック・オア・トリート!」
ハロウィンで悪戯をしに来たふりをして、そそくさとその場を去った。
いくら自分の背が低くても子どもには見えないだろう。
例え子どものふりが通用したとしてもここは日本なのだから、訪ねた家々の大人達がお菓子をくれるわけではないのだ。
表札は桐野ではなくて早川になっていた。
歩きながら肩のダガーを引き抜いた。 初音の癒しのパワーのお陰か血も出なかった。傷口は抜いたそばから塞がって行った。
父が保証人になって、夜逃げをした友人の借金を背負うことになった。持ち家と車を手離して、古びた狭い借家に引っ越したのを桐野はまだ知らなかった。
ポケットに不自然な重みを感じ、まさぐるとなぜか携帯が入っていてフル充電されてあって驚いた。
半信半疑で母に電話をすると通じた。
「お帰り。迎えに行けなくてごめんね。······びっくりしたでしょ?オーストラリアはどうだった?」
「······は?」
どうやら自分は語学留学にオーストラリアへ行っていたらしく、その最中に家族は全てを失い引っ越したという。
今日自分が日本に帰国するこになっていたのは、まるで狐につままれたような気分だ。
着衣の大きめのポケットには財布とパスポートまであった。その奥に鍵の重みを感じた。多分それは元の家の鍵だろう。
(ど、どうなっているの?)
これが召喚の補正というものなのだと桐野は理解した。
向こうの世界でのチートよりも、この補正の方が余程ファンタジー、魔法みたいに思える。
お土産はないから、どう言い訳したら誤魔化せるかなと思っていたら、ずしりと大きな鞄が突然肩にかかった。
中を開けると、着替えと教材、土産らしきお菓子の箱が入っていた。
補正って、こんなに至れり尽くせりなのね。
「もうすぐ家の前に着くところ」
メールを送ると、すぐに「わかった」と返信が来た。
アパートの前で母が私を待ってくれていた。久々に見る母はやつれていた。
「志摩ちゃん、お帰り」
「た、ただいま」
築何十年かの古い二階建てのアパート、その一階の角部屋が、どうやら新居のようだ。手摺や階段も錆びている。家の外に洗濯機が置いてある。外見も中身も古いが一応自分の部屋は用意されてあった。部屋全部が畳の部屋だ。
これでも牢屋にいるよりはずっといい。
昨年結婚した兄は嫁の家に婿に入ったという。
(いつの間に!?)
実質、父の借金を返すのは両親と私だ。私の結婚費用のために積み立てていたお金も、全部借金返済に消えていた。
記憶に全く無いが、以前の職場は退職していたので戻れない。三十になって転職するとは思わなかった。
私の妄想プランは留学先で結婚相手をゲットしてそのままゴールイン。国際結婚も有りだったのよね。
異世界で元聖女として牢屋にいるのと、今のカツカツの貧乏生活ならどちらがいいだろうか。
玉の輿にでも乗らないと、この貧乏暮らしからは解放されない。宝くじに当たるほど運は強く無いし。
仕方なく再就職した職場では年下にこき使われていやな気分だ。でも、お金を返さないとならないから文句は言えない。
お金を返すためだとしてもダブルワークをするほどスキルもやる気も無い。
借金があったって、自分の欲しいものは買いたいし、楽しみは失いたくない。
でも、そのために馬車馬のように働くなんて私には無理なのよ。
······私、聖女の方が幸せだったなあ。
母も夜遅くまで働いているから、料理とか家事を私がやらないとならなくなった。
ああ、こんなことなら、聖女の方がマシだった。
私、また異世界に戻れないかな?
そうよ、整形すればバレないんじゃない?
───私、帰りたいわ。
ここは私のいる世界じゃ無いのよ。
桐野は職場をやめ、なけなしの金で整形をした。
鏡に映る自分の顔は、以前よりも美形になった。
( 私が親の借金でこんな貧乏暮らしをしていることも、これで知り合いにバレなくて済むわ)
桐野は自信をつけたのか、水商売に挑戦してみることにした。
嘘でもお世辞でも心に無いことも平気で言えるし、口は達者だからすぐに客がついた。
桐野は客に自分へ貢がせることがたまらなく快感だった。
普通の会社員にはもう戻れない。水商売は自分の天職だと思った。
桐野は源氏名は玲奈にしていた。歳もサバを読んで二十代で通している。
「玲奈ちゃん、俺と結婚してよ」
馴染み客に求婚されて気をよくしたが、もっと大物を狙いたいので、整形を繰り返し美しさに磨きをかけた。
この世界に戻って来たら勇者加藤なんて肉屋の息子でただのサラリーマンだし、鳴瀬も男爵夫人ではなくてただの子持ちの主婦でしかないわ。
見てなさい、私はその上を行ってやるんだから!
その後桐野は理想の伴侶としてのターゲットを見つけ、逆に男に貢ぐようになっていた。
男女の関係にはなったが、なかなか求婚をしてはくれない。
(私、もう三十だし······)
「悪いね、僕は結婚に興味が無いんだ」
「い、いいのよ、私は子どもも欲しく無いし」
「そう?ならよかった。僕も子どもは苦手だな」
なんて言っていた男は、既に妻帯していて子どもも三人いた。
桐野の金でいくらでも飲ませてくれる都合のいい関係に胡座をかいているだけなのだが、桐野はまだ気がついていなかった。
好きでもない男に好きとか愛してるとかを平気で悪気なく言う人間は、自分側がそれを相手にされることに対しては案外鈍いのかもしれない。
実家の借金も桐野の稼ぎでだいぶ返済できた。両親には感謝されるので悪い気はしなかった。
この世界に帰って来た時は、家が人手に渡り親の借金で押し潰されそうになっていたから、まるで奈落の底に落ちたような気がした。
けれど、それでも異世界で処刑されるよりはずっとマシに思えるようになったのだった。
そんな桐野に唐突に修羅場がやって来た。
男の妻だという女性に彼とホテルにいたところを踏み込まれたのだ。
男は実年齢をサバ読んでいて、某業界の御曹司というのは真っ赤な嘘で、しがない営業マンだった。
偽名まで使っていて、何もかもが嘘だらけだったのだ。
「この泥棒猫が!」
桐野は男の妻に胸ぐらを捕まれた。
だがすぐさまふりほどいて、自分のバッグからあのダガーを取り出した。
肩から引き抜いた後、綺麗に洗浄して布にくるんで常に所持していた。
ダガーは部屋の灯りを反射して煌めいた。
桐野がそれを握り締めて眼前に見せると妻も男も凍りついた。
桐野は他人からこっぴどく嘘をつかれて騙されるという経験は初めてだった。
嘘をつかれて騙された人がどのような心の痛みを伴うのか、どれだけ傷つくのかをやっと理解し思い知った。
それは自分が嘘つき桐野として今まで他者に散々味合わせて来たものだ。
「······酷い」
酷いのはこの男もだけれど、これまでの自分の方がもっと半端なく酷いものだった。
その事に思い当たって、桐野は衝撃を受けて涙が溢れた。
「うう······」
ダガーを握り締めながらその場でぶるぶると震えている桐野の様子に恐怖した男がなだめようとした。
「······れ、玲奈ちゃん?」
「近寄らないで!」
桐野がダガーを男に振りかざした瞬間、桐野はまばゆい光に包まれた。




