人間
リツ・ムラカミという人間を一言で言い表すならば、過ぎたお人好し、という表現が最も的確ではないかとバートランドは思う。
爽やかな薫風が窓辺の白いカーテンを揺らす部屋の一室、バートランドの見詰めるベットには全身に包帯やガーゼ、細々した裂傷を纏うリツの姿があった。ベットの傍らで椅子に腰掛け、それを見詰めるバートランドは気配も吐息も全く殺していないというのに、リツはぴくりとも動かず白い顔で固く瞼を閉じている。
「…事前に報告しますから、と。そう言ったのはあなたですよ、リツさん」
小さく呟いた言葉に応えは無い。柔らかい日差しがリツの頬を撫で、微かに煌いて去っていく。
「約束すると、そう言ったじゃありませんか」
返事がないと知りつつも、それでも言葉は溢れ出た。静かすぎるリツに、あなたらしくないと思うのは多分、バートランドの勝手なのだろうけれど。
バートランドらがリツ捕縛の一報に王都へとんぼ返りしたのはもう、二日前のことになる。エディンバから王都クィネザ、その道を行きはだらだらと四日かけて行ったものを、六人全員が一言も発さず一日という強行軍で王都へ戻った。とりわけ先頭に立ったエヴァンジェリスタの気迫は凄まじかった。捕縛の連絡を父であるレイヴァンディエスタに伝えた際、顔を強張らせた侯爵を訝しみ問い詰めた。侯爵はリツとの約束だからと何も話さなかったが、もうその時点で何かがあったことは明白だ。中隊長たる彼は概ね冷静さを欠かず、感情を露にすることは少ない。けれどその時のエヴァンジェリスタはバートランドが見たこともないくらい焦りと怒りが混ざった顔をして、糞が、と珍しい悪態をつきながらニールスの森へ馬を飛ばした。森には当然のことリツの姿はなく、けれど代わりに異形の守護者がまるで来るのを解っていたかのように微笑んで座していた。守護者は彼らに、そこで起きた事実全て一つも隠さなかった。
エヴァンジェリスタは、侯爵を責めなかった。
王都に着きはしたが、リツの身柄が大聖堂にあると知っていても騎士であるバートランドたちに会う手立てなどない。そもそもがリツは指名手配犯なのだ。捕まった件に関し騎士の自分たちが異議申し立てをするのは可笑しいし、匿っていたなど公にしようものなら事態は余計複雑を極める。そしてもし、そんなことをしたとして処分を受けるのは自分たちでも、その責任をリツが負おうとするのは目に見えている。それでは本末転倒だ。
けれど悩むバートランドを他所に、中隊長であるエヴァンジェリスタは手段を選ばなかった。指名手配犯の末路は処刑と相場が決まっている、考えている時間は無いといい、普段は疎ましがっている規格外の容姿を最大限に活用し女性神官の手引きでバートランドとエルンストの二人を大聖堂に侵入させた。今だ嘗て無い上官の行動に驚くバートランドに、その意味を教えたのは一番エヴァンジェリスタの部下歴が長いヴェルナーだ。―――優れた容姿に侯爵という家柄、加えて貴族らしくない真面目な性格という中隊長は、慕う部下は多いが対等である友という存在はあまりに少ない。そもそもが騎士団に上級貴族がいること自体希で、隊の殆どが専ら子爵男爵あたりの下級貴族か商家、或いは血筋的に剣や弓、或いは魔導などの武道に秀で過去多くの武人を輩出した武家で、エヴァンジェリスタのような存在は異質だ。エヴァンジェリスタと同期入隊だったという騎士はもちろんの事いるが、彼らはエヴァンジェリスタのミスを誘発しようとするばかりで一向に親しくしようとはしない。―――ヴェルナーもバートランドも、エルンストもヴォルフガングもブレーズも、今は亡き同士たちも、エヴァンジェリスタを慕い尊敬し、そして解りあう同胞だった。けれど部下という身分は、どうしても対等ではない。気持ちの上で友ではあるが、やはり部下としての友でしかない。
―――昨夜、リツ様がエヴァンジェリスタ様を泣かせてくださいました。
エディンバへ出る前に、プレディーオール別邸を預かり管理する筆頭執事ジェネンガがそう嬉しそうに言っていた。バートランドはエヴァンジェリスタが泣くところを見たことが無い。八年以上共に居るヴェルナーも見たことが無いと言った。
つまりは多分、そういう事なのだ。
女性神官に連れられ入った大聖堂奥は、目を見張るばかりの豪華な作りをしていて驚いた。だが手引きした神官にリツは民衆に開放していない特別な礼拝の場に居ると教えられ、二人共にそんなものがあったことに絶句した。そして姫君と大神官の二人も一緒に居ると神官は言い、彼らは一体何をしているのかと問えばリツを聖女の代役とする用意だと神官は答えた。バートランドは言葉を失い、顔色を変えたのはエルンストだった。
バートランドはエルンストが聖女の事について何かリツと話したらしいとは知っていたが、その内容までは知らずにいた。どういうことだと聞いたバートランドに、エルンストの答えは簡潔だった。「聖女」とは即ち、「神」の食い物である、と。
女性神官はリツ達が入ってもう半日以上経っていると言った。何度体当たりや打撃を与えても扉は頑として開かず、両腕の皮が裂けるほど殴りつけてもぴくりともしなかった。血の気の引いた顔で呆然と見つめた扉がその口をあけたのは夜明け前で、そこにあった光景はこれが神の所業かと目を疑うものだった。巨大な陣の上で血に沈むひしゃげた人体、その隣でぼうと虚空を見上げる姫君に、それを守るように彼女の前でうつ伏せに倒れるリツの姿。肌に妙な模様が浮かんでいたのが一瞬見えたが、それよりもその体が血に濡れている事に戦慄した。扉が開いたことでどこかへ連絡が行くようになっていたのか、場に人が集まる気配を感じてバートランドはリツの身を抱えた。姫君の様子も気にはなったが、エルンストが見つかる前にと言い入り口へ目をやり、そこに神官見習いの少女が一人立っているのを見て顔を険しくした。
少女は蒼白で、けれど何か強く決意した色をそこに宿し、逃げるならこっちだと裏道を示した。
―――そこから抜けて洗濯場の前を通れば裏庭に出ます。それを左に。人払いはしてあります、行って下さい。
そう言って、意識の無い血に濡れたリツを見つめ、涙をつるりと溢れさせた。
―――どうか、無事に。
少女がリツとどういう関係であるのかは知らない。けれどその必死な様子にバートランドは頷き、エルンストと急いで少女に言われた通り走った。大聖堂は蟻の巣をつついたような大騒ぎになっていたが、それに乗じて馬車を呼び、プレディーオール別邸へ移動した。
エヴァンジェリスタは色々と情報の工作に奔走していた。けれど戻ったリツを見るなりメイドに医者を呼べと叫び、リツの治療が終えるまでその側を離れなかった。しかし翌日を待たず、唐突に貴族としてのエヴァンジェリスタに王宮から召集がかかり、側で控えていたヴェルナーがブレーズと共に交代した。
日が変わっても、リツは目を覚まさなかった。
エヴァンジェリスタは戻らず、リツの側に居る人間はヴォルフガングとエルンストに代わった。それがバートランドに代わっても、やはりリツが起きる気配は無かった。
ぼんやりと、バートランドは窓で遊ぶカーテンを見つめた。
―――いたって普通に人類してるんですから。
―――強かろうが人間である以上捻挫もするし風邪も引くし食あたりも起こします。
そうだ、人間だ。
窓辺の風がさらりと律の黒髪を遊び、覗く額に赤い傷が見え隠れするのを目に、バートランドはそんな当たり前の事を思った。
正直、忘れかけていたように思う。まだ出会って一月も経っていないが、生き残った第三中隊、騎士団でも割と異色とされた自分たち六名の中に、元から居たかと錯覚するほど溶け込み、飄々と拳や刀を圧倒的強さで振るうこの人物は、それでもただの人間だ。敬愛する中隊長、エヴァンジェリスタがリツを何度も説教する姿に正直少し心配が過ぎるのではないかと思ったりもしたが、今思えばあれは過剰でもなんでもない当然の態度だった。一人の人間であるリツという存在――こうやって自身を顧みず他者ばかり優先する友人に対する反応として、エヴァンジェリスタの態度はあまりに当たり前なものだったのだ。
「―――リツさんは、」
どうしてそう、自分をないがしろにするのか。
最後まで呟かず閉じた瞼に、会って初めて共に野営をした夜、飛び起きたリツの姿がぽつりと浮かぶ。
全身を押さえ付けられそうな程の威圧を放ち、黒い瞳は憎悪と殺意に溢れていた。なのに我に返り詫びながら脱力した姿はただただ疲れ、薄く笑って纏う闇の濃さに何故そんなに全て一人で背負うのかと驚いたものだ。
思えばあれは、バートランドだけが垣間見たリツの本心だった。見て、知っていたのに忘れていた。
本当はリツの内側は今横たわる姿よりももっとぼろぼろで傷だらけで、普段優しげな面立ちと柔らかな物腰は単なる張りぼてなのかもしれない。それこそ、それを自分たちに気取らせないほど、そしてバートランドがリツを人間であると忘れさせるほどに完璧な。
バートランドは項垂れ、脳裏に蘇った大聖堂の光景を思い嫌悪に顔を歪めた。
あれのどこが、神聖だというのだろう。あの血に塗れた空間が神の作り出したものだと言うのなら、その神は化け物としか思えない。
そこまで考え、ふと思い出す。そういえば。
礼拝の場に入った一瞬、リツの肌に見えていた模様。
あれは蔦のようだったが、確かニールスの森で契約印だから気にするなと言っていたあれ、あの模様と同じではなかったか。
―――古の時代に生きていた神の名残よの。加護も祝福も古の神の名残だえ。
目覚めさせられた、異形のデラシネとやらの言葉が頭に木霊する。
エルンストは、森を何の戦闘兵と言っただろう。
加護。自覚も無く、知らなかったそれ。それを知っていたリツ。いや、知っていたのではなく、見抜いた?
「…古の時代。古の契約、古の神―――神?」
「―――――それ以上は、考えないでくれませんか」
掠れた柔らかい声。
小さく、しかしはっきりとしたその声に、バートランドは顔を上げた。
そこに硬く閉じられていた瞼でなく、だるそうな顔ながらも生気ある黒い瞳がこちらを見ていて、困ったように笑っている。
「リ…」
黒い瞳が、ぱちりと瞬く。
「リツ、さん」
「はい」
「目が、目が覚めて―――お体は」
「はい、ちと痛いですが大丈夫そうです。すいません、ご心配おかけしました」
「―――――それは、」
良かった、と、口にしたかったが、言い表せぬ安堵で声が詰まり、バートランドは顔を伏せた。震えそうな手をどうにか握り、身を起こそうとしているリツを見て慌てて手を貸す。
「ちょ、リツさん!無理は駄目ですよ、そんな直ぐに起きては…!」
「や、大丈夫ですよ…と、あたた、何か体が硬いな、…バートランドさん、私どのくらい寝てました?」
首の包帯を摩りながらぼきぼきと呑気に間接を鳴らすリツに、バートランドはちょっとため息を落とした。
「もうすぐ三日になります」
「はぁ三日。―――は?」
一度頷き、ぎょっとして目を見開いたリツに、バートランドはこめかみを押さえた。リツがあまりにもいつも通りで、嬉しいような呆れるような、良く解らないが取り敢えず頭痛がする。
バートランドの反応を見て、リツがその顔色を若干悪くした。
「それは、あの…バートランドさん、皆さんはその、ご様子は…」
「カンカンです。僕も含め、皆怒ってますよ。事前報告をするという約束をした側から破ったんです。説教は免れないと思ってください」
「…おおお…」
色をなくして硬直するリツをバートランドは笑顔で見つめ、全員に通信でリツの目覚めを伝えた。
連絡を受けた彼らはすぐに駆けつけたが、まだ王宮から戻れないエヴァンジェリスタはジェネンガに伝言を残した。
「リツ様、お目覚め心より嬉しく、お喜び申し上げます。ところでエヴァンジェリスタ様より伝言を預かりましたのでお伝え申し上げます。
―――"てめぇこの大馬鹿野郎が、首を洗って待っておけ"―――以上です」
あああああ、と頭を抱えたリツに、ヴェルナーが言った。
自業自得ですよ、バカヤロウ、と。




