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第8話 脱出

「……ユーグ様」


後ろのレティシア。

ダニエルが逃げた扉を確認した後、自分のことを呼ばれたのだと気が付いて振り返った。


「無事か?」

「はい。……よろしいのですか?ダニエル。人を呼ぶはずです」

「ああ、よい」


今から追いかけたところで追いつけない。


「レティシア」

「はい」

「心配をかけた」

「いえ、そんな。どれだけ感謝してもしきれません。本来私などは捨て置いてよい立場ですのに」

「いや、そんなこと、あってよいはずがない。……いずれにしても今は時間がない。逃げるぞ」


答えながら、レティシアの手を引く。


「ありがとうございます。しかし、逃げるのはよいとして、どこからでしょう?このままでは囲まれます」

「こちらだ」


レティシアの手を取って自室へと向かう。

階下から多くの人の声が聞こえてくる。

やはり騒ぎになっているようだ。

急いだほうがいい。

自室に入ると、本棚をずらす。


「……こんなところが」

「水の中に入るが、大丈夫か?」

「それは構いませんが、この格好では目立ちませんか?」


レティシアの姿はロングドレス姿。

とはいえ、悠長に着替えている時間などない。


「それはここを脱出してから考えよう。ダニエルもこの通路のことは知らないはずだが、いつ見つけられるとも限らない」

「わかりました」


うなずくレティシアを見る。

そのレティシアがこちらを見る目が、いつもとは違う気がした。

が、それも当然だ。

ニコラへ向ける視線ではなく、ユーグに向ける視線だからだろう。


……どうするか?


本当はニコラであることを言ってしまったほうが良いと思う。

しかし、今、何より優先すべきはこの場から脱出すること。


「……どうかされましたか?」


レティシアの顔が近づいてくる。


「い、いや。なんでもない。行こうか」


かなり暗くなった螺旋階段を下りていく。

足場はよくないが、それでも急ぐ。


今ごろユーグ夫妻の部屋に兵が殺到し、ユーグとレティシアを探し回っているだろう。

城内にいないとわかれば、すぐに街中にも兵士はあふれ、身動きが取れなくなってしまう。


時間が勝負だ。

階段が終わり、目の前に薄暗い水が広がっていた。


「レティシア。水の中に入ると数メートル狭い通路が続き、そうすると外の堀に出る。大丈夫か?」

「ええ、ユーグ様が導いてくれるのでしょう?」

「無論だ」

「少し待ってください。剣をお借りできますか?」

「かまわないが、何に使う?」

「こうします」


レティシアは受け取った剣で、ロングスカートのすそを切り取ってしまう。

太ももから下の脚があらわになってしまった。


「……思い切ったことを」

「このままでは邪魔になるばかりですから」

「わかった。いくぞ」


うなずくとレティシアの手を取り、水の中に入っていく。

腰までつかったところで、レティシアを見た。

しっかりとうなずくレティシア。

息を大きく吸い、レティシアの腰を抱きながら水の中に入った。

そのまま通路に沿って泳ぐ。

レティシアはしっかりとこちらに抱きついている。

通路を抜けて、堀の底を蹴ると、そのまま水面に顔を出した。

レティシアも大きく息を吸い込んでいる。


「大丈夫か?」


石垣につかまりながら、レティシアを支える。


「大丈夫です」


そううなずきながら、しっかりとしがみついてくる。

柔らかなレティシアの身体。

落ち着くまではと、優しく支える。

何度か呼吸をし、整えるとレティシアがこちらを見てきた。

触れるばかりに近い、水に濡れたレティシアの顔。

そのレティシアが囁くように言う。


「……もう、ダメかと思っておりました。帝国の兵がなだれ込み、抵抗することもなく城を奪われたときは」

「心配をかけた」

「まさかユーグ様が私を助けに来て下さるとは思ってもいませんでした」

「いや……夢中でやっただけのことだ」


答えると、レティシアがこちらをじっと見る。

どういう感情なのか。

その瞳を正面からは受け止めきれない。

どうしたって、騙している。

いまのユーグはニコラなのである。

それをレティシアは知らない。

レティシアを抱えたまま、泳ぎだす。


「ニコラさまのことは……ご存知ですか?」


レティシアはこちらにしがみつきながら聞いている。


「ああ、街で見た。しかし、まさかダニエルとレモンドが裏切るとは……」

「どうしてなのかは私もわかりません。突然帝国がやってきて、拘束され、ニコラさまの遺体の前に連れていかれました。何が起こったのかわかりません」


息遣いが感じられるほどの距離。

夫婦であるから許される距離なのだが、当然ニコラには近すぎる。

目をそらしながら答える。


「……私にわかっていることは、王都からの帰り、突然馬車が襲撃を受けた。直後に刺客が四人。三人までは倒したが、四人目と刺し違えることになった」

「ユーグ様が?」


レティシアの驚きの声。

今の言葉は自分がユーグであることを忘れていた。


「父が、だ。父が戦い、刺客を四人とも倒した」

「そうですか……。ニコラさまは三人を切り倒し、四人目と相打ちになられたと」


しがみつくレティシアの身体がわずかに震えたのが分かった。


「ああ」

「ユーグ様は……」


一瞬だけ、レティシアの目に強い光がこもった。

だが、それ以上は何も言わない。


「……まだ逃げ切ったわけではない。息は大丈夫か?」

「はい。行けます。けれど、この近辺は既に帝国が抑えているのでしょう?大丈夫なのですか?」

「絶対とは言えないが、街の外に出るルートは考えてある。いくぞ」


周りを気にしながら、レティシアと一緒に堀の中を進む。

幸い、日がほとんど沈んで周りはかなり暗く、堀の中を泳ぐ姿は目立たなかった。

城から随分と離れたところまで来ると、ニコラは岸に近づいていく。


「大丈夫か?」


ニコラが先に堀から上がり、レティシアの手をつかんで引っ張り上げた。


「ありがとうございます」

「いや……」


水にぬれたドレスが身体に張り付き、その輪郭を浮かび上がらせている。


「これからどうなさるのです?主な街道は抑えられているはずです」

「だろうな。陸路は無理だろう」

「陸路は、ということは……。海路を?」

「そのつもりだ」

「船は準備があるのでしょうか?」

「小舟が一艘、以前から準備してある。それで街道を越える予定だ」

「そのような準備を……」


こちらをじっと見てくる。


「そなたの父、ブロワ伯に言われたことだ。領主は城を枕に死ねばよいが、家族は逃がせるなら逃がす準備をしておけ、と。そのためにあの通路を作り、海路で逃げられる準備だけはしておいた」

「お父さまがそのようなことを……」

「わかっていようが、ブロワ伯は家族を大切にされる方だ」

「……そうですね」


レティシアが少しうれしそうにうなずく。


「とりあえず、この先に小舟が置いてある場所がある。まずは海に出てしまおう。そうすれば海流に乗って一気に外に出られる」

「はい」


うなずいたレティシアを伴い、セイルーズの街の小道を進む。

並んで歩く二人は頭から水に濡れた姿。

しかも、レティシアは明らかに町人ではないドレス。

しかもそのスカートの裾が切り取られ、脚が露出している。


女性がここまで脚を出すのはあまりあることではない。

人目を避けて裏道を通っているが、それでも注目は集める。

帝国兵が聞き込みに回った時、変わった二人が歩いていたと伝わってしまうだろう。


「ユーグ様、少しよろしいですか?」

「ん?」


レティシアがニコラの腕を胸で抱え込むようにしてぴったりとくっつく。

驚き、戸惑う。

柔らかいものが直接腕に感じられてしまう。


「どうしたのだ」

「こんなふうにすれば、私をそういう女性だと思ってくれるはずです」

「い、いや。しかし、いいのか?」

「おかしなことをおっしゃるユーグ様。夫婦ですよ、私たちは」

「そうだ、な。そうだった」


つい忘れてしまう。

今のニコラはユーグの姿なのである。


「ユーグ様?どうかされましたか?」


顔がほとんど触れんばかりに近づく。


「い、いや。レティシアこそ。よくそんな女性のことを知っているなと、そう思っただけだ」

「フフ、お忘れですか?私の母は身分の低い人間です。私も子供のころは城では住めず、こんな街で暮らしていましたから。そういったところも見てきています」

「そうか……。そうだったな」


納得はする。

しかし、これは騙しているようなものだ。

レティシアはニコラのことを当然、ユーグだと思ってこんなことをしている。


実はと切り出したくなるが、何より今は逃げなければならない。

それに、レティシアの言う通り、ある程度注目は逸らせたのかもしれない。

下世話な雰囲気を出すことで、街の小道に溶け込んでいる。

胸の柔らかさを感じながら、二人で寄り添って歩く。


「……もうすぐだ」

「船があるところですか?」

「ああ。城に出入りしている海運業者の倉庫に預けてある。あの小さな建物だ」


小道の先にある小さな建物を指さす。

街には暗闇が訪れ始めており、その建物も真っ暗であった。


「人がいるのですか?」

「いや、いないはずだ。海運業者が倉庫として使っているだけだ」


答えながら、扉の前に立つ。

当然鍵がかかっていて、開かない。

ニコラは周りを見ると、剣を抜いた。


「どうするのです?」

「鍵を壊す。鍵は預かっているが、さすがに持ち出す余裕はなかった」

「それは……そうですね」

「それより、レティシア。いいか?」

「何がでしょう?」

「鍵を壊すから、少しだけ離れていてくれてもいいか?」

「ああ、申し訳ございません」


レティシアはすぐに離れた。

感触が失われもったいない気がしたが、六十前の男には刺激が強すぎる。

切っ先を鍵に当てて、押し込んだ。

鍵が地面に落ち、扉が開く。


「中に」


レティシアを中に入れ、ニコラも続いて入る。

扉を閉めると、中は明かり一つなく真っ暗。

先ほどまでかすかに夕暮れの光が届いていたが、今は完全に沈んでしまっている。


「レティシア、こちらに」


手を伸ばすと、レティシアがその手をつかむ。


「暗いですが、お分かりになるのですか?」

「何度かは来ている。確か、ここに階段があったはずだ」


足先で探りながら、慎重に階段を下りていく。

階段の下はぼんやりと明るい。外とつながっているようだ。

さらに階段の下まで降りると、水路が目の前にありそこに船が浮かんでいた。


「……ここ、舟屋のような作り……」

「そういうことだ」


ニコラは船に乗ると、レティシアの手を取り、船へと移動させる。


「ありがとうございます」

「いや、それより座って。いつ追っ手が来てもおかしくない。急ごう」


レティシアが正面に座る間、ニコラは船をつないである綱をほどき、舟屋の壁をけった。

船が動き出す。


「慣れていらっしゃるのですね」

「ああ。準備はしても使えなければ意味はないからな。何度か試しているし、このまま水路を下って海まで出れば、潮の流れに乗って隣の子爵領までは行ける」

「そのようなこと、されていたとは知りませんでした」

「……さっきも言ったが、ブロワ伯の教えだ。家族を守るためのな」


なんとか話のつじつまを合わせながら、両手で櫂を漕ぎだす。

船は運河から川に出ていく。


少しだけ、息がこぼれた。

まだ完全ではないが、逃げ延びられる光が大きくなってきた。


川の流れと櫂の動きが合って、徐々に速度が出てくる。

その時、川岸に帝国兵の姿が見えた。

何かを叫んでいる。

どうやら見つかったらしい。

数十人の帝国兵が集まり、その中に騎兵もいた。


大柄。

見たことのあるシルエットだった。

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