97 演じる女《セリーナ》
「お帰りなさい、貴方」
仕事から帰宅した夫を、メルボーン子爵邸の小さな玄関ホールで出迎える。
「ああ、ただいまセリーナ」
いつもの様に笑顔で答えた夫は、セリーナにハグをして、頬に軽く口付けを落とした。
「まあまあ、相変わらずお熱いわね」
一緒に出迎えた義母が、楽しそうに息子を揶揄う。
「最愛の妻に触れたいと思うのは当たり前でしょう?」
「ご馳走様。もうお腹いっぱいだわ」
クスクスと笑いながら、義母は若い夫婦を残して私室へ戻って行った。
「あの子はどうしてる?」
「今は落ち着いているわ。
新しいお薬が効いたみたい」
心配そうに息子の容体を問う夫に笑顔で答えると、彼はホッと息を吐き出した。
「そうか、良かった。
医者を紹介してくれたお二人に感謝だな。
ちょっと様子を見てくるよ」
そう言い残した夫が子供部屋へ向けて足を踏み出すと、古びた床板がギシリと小さな音を立てた。
去って行く夫の背中を、セリーナは貼り付けた笑顔で見送る。
誰の目から見ても、二人は愛し合う夫婦に見えていた。
メルボーン子爵家の家族や使用人も、誰一人として疑わないほどに。
しかし、甘やかな愛を語った夫の瞳には、恋人だった頃に感じた様な熱は一切篭っていない。
二人はもうずっと前から、こうして幸せな夫婦を演じている。
周囲の人間も、相手も、自分すらも騙し続けて。
セリーナと夫が出会ったのは、まだ二人が学生だった頃。
その時のセリーナには、既に婚約者がいた。
相手はセリーナの実家と同じ家格の侯爵家の嫡男で、子供の頃に両家の当主の意向で決まった婚約だった。
しかし、セリーナと婚約者の相性は最悪だった。
当然セリーナは父に『彼とは結婚したくない!』と訴えた。
しかし、普段はセリーナに甘く、欲しい物はなんでも買ってくれる父も、結婚に関してだけは彼女の要望を汲んではくれなかった。
婚約が解消されないまま、学園に入学した。
すると元婚約者は、複数の下位貴族の令嬢を侍らせる様になったのだ。
『結婚して妻との間に男児が生まれさえすれば、一応の義務は果たした事になる。
後は自由に生きれば良い』
おそらく彼は、そう考えていたのだろう。
セリーナの母国は男性の浮気には比較的寛容だが、女性には貞淑を求める傾向にある。
彼は愛妾を作って家庭から逃げる事が出来るかもしれないが、セリーナには逃げ道が無い。
(狡いわ。どうして私一人が我慢しなければならないの?)
悔しくて視界が滲んだその時だった。
「大丈夫ですか?」
婚約者の不貞を悲しんでいると誤解したメルボーン子爵令息が、心配そうに声を掛けてくれたのは。
二人が恋に落ちるのは早かった。
父の説得は難航したが、セリーナが強硬手段に出た事で、なんとか婚約破棄を勝ち取った。
今思えば、この瞬間が彼女の人生で一番幸せな時だったかもしれない。
「セリーナの婚約破棄が成立した。
後は他国に渡るなり結婚するなり、好きにすれば良い。
但し、こちらからの援助は期待するなよ」
メルボーン子爵令息を紹介した時、父が発した第一声がそれである。
「……え?」
初めて父から向けられた冷ややかな眼差しに、セリーナの背筋にゾワリと悪寒が走る。
そして遅れ馳せながら気付いたのだ。
父が自分に甘かったのは、愛していたからではない。大切な政略の駒だったからなのだと。
焦燥感に駆られたセリーナは、震える両手を膝の上で握り締めながら、恐る恐る隣に座っていたメルボーン子爵令息の顔色を窺う。
微かに顔を歪めて黙り込む彼の瞳に浮かんでいたのは、明らかな失望だった。
メルボーン子爵家はあまり裕福な家ではない。
最初から金だけが目当てだったとは思わないが、おそらくセリーナの実家に援助を期待する気持ちも少なからずあったのだろう。
セリーナはもう自分が彼に純粋に愛されているとは思えなかった。
それでも、侯爵家同士の縁談を壊してしまったのだから、メルボーン子爵家に嫁ぐのは決定事項である。
いつの間にか母国の社交界にも嫁ぎ先の国にも、セリーナ達の馴れ初めは大きく脚色されて美談として広まっていた。
それは娘を見捨てた父の最後の慈悲だったのか、それとも報復だったのか、今となっては分からない。
メルボーン子爵令息とセリーナは、美談の通りに『真実の愛』を演じる事にした。
それしか貴族社会で生き残る術が残されていなかったのだ。
激しく燃え上がった恋の炎はとっくに鎮火して、既に僅かな燃え滓くらいしか残っていなかったけれど。
夫の怪我を治してくれたプリシラには、多少の感謝はしている。
お陰で夫が仕事を休まずに済んだのだから。
だが、それだけだ。
寧ろ彼女の思慮の浅さを見ていると、昔の自分が思い起こされて、ほろ苦い気持ちにさせられる。
では何故、セリーナがプリシラと懇意にしていたのかというと、それが『真実の愛で結ばれた夫を助けてもらった妻』として、取るべき行動だと思ったからにすぎない。
因みに、第二王子に関してはプリシラに対する感情よりももっとハッキリとした嫌悪感を覚えている。
政略結婚の相手を蔑ろにして、他の女に想いを寄せる様は、元婚約者を思い出させるから。
だが、『真実の愛』で無理矢理婚約を破棄した自分が、他の人間の『真実の愛(かもしれない物)』を批判する事など出来るはずもない。
しかし、今回の件で、彼等と距離を置く大義名分が出来たのだから、もうプリシラを擁護する必要はなくなった。
その事にセリーナは少しだけ安堵している。
複雑な思いを抱えながらも、セリーナ達はきっと今後も『真実の愛』の呪縛から逃れられないのだろう。
だけど後悔はしていない。
夫との間に授かった息子は、今や自分の命に替えても守りたい存在となった。
それに───、
実はセリーナは、まだ少しだけ希望を捨てられずにいるのだ。
『このまま自分を騙し続けていれば、いつかそれが再び真実になる事もあるのではないか?』という、とても小さな希望を。




