148 因果応報《教皇》
「ほら、覗いてごらん。とても美しい魚が泳いでいるよ」
「え? どこ?
いないじゃないか、兄う───」
───ドンッ。
『兄上』
その呼び名を、弟は最後まで口にする事が出来なかった。
信頼していた兄に背中を押された小さな体は、凍える冬の湖へと投げ出されたからだ。
バシャバシャと大きく水飛沫を上げて藻搔いていた弟は直ぐに力尽き、暗い水底へと深く深く沈んで行く。
澄んだ湖の水面に、小さな気泡がコポコポと浮かんでは消えた。
湖水よりも冷たい眼差しでそれを見詰めていた兄は、ほんの一瞬微笑みを浮かべる。
次の瞬間、まるで火が付いたかの様に大きな泣き声を上げた。
───これが、現教皇の手による最初の殺人である。
六歳の冬だった。
彼の証言により、弟の死の原因は、湖に近付き過ぎて足を滑らせた事故であると断定された。
弟を殊更可愛がっていた母は、引き揚げられた遺体に縋っていつまでも泣いていた。
彼はそんな母を慰め、献身的に支え続けた。
その甲斐あって、やがて母は不幸な事故から立ち直り、弟へ向けていた分も彼に愛情を注ぐ様になる。
「私にはもう貴方しかいないの。貴方は私を置いて逝かないと約束して」
そう言いながら抱き締める柔らかな腕の中で、彼は仄暗い笑みを浮かべた。
こうして彼は、母からの揺るぎない愛情を取り戻す事に成功したのだ。
弟という邪魔者を排除した彼は、両親の愛を一身に受けて成長し、当然の如く父から教皇の位を受け継いだ。
甘やかされて育った一人息子の彼は、高い地位についても尚、放蕩の限りを尽くした。
欲しい物は奪えば良い。
邪魔する者は排除すれば良い。
幼少期の成功体験から、彼は自己の利益の為に、他者を踏み躙る事を何とも思わなくなっていた。
そんな彼にとって、王太子サディアスは目の上のたん瘤的な存在である。
サディアスが政治に関わる様になってから、教会に巨額の献金をしてくれていた貴族家当主が三人も失脚した。
お陰で教会の権威は、徐々に衰え始めている。
しかし、どんなに邪魔であっても、相手は王太子。
他の有象無象と違って、簡単には手が出せない。
光魔法の使い手が発見されたのは、そんな頃の事だった。
(教皇位に就いている間に聖女候補が見つかるなんて、やはり私は強運の持ち主だ)
聖女の後ろ盾になれば、更に大きな権力を手にする事が出来るだろう。
無駄に煌びやかな私室で、豪華なベッドに寝そべった教皇はほくそ笑む。
「何を笑ってるの?」
隣に寝ていた裸の女が気怠そうに問う。
「別に」
素っ気なく答えた教皇は、女に背を向けて瞼を閉じた。
光魔法の持ち主、プリシラ・ウェブスターは、明るく愛らしく素直で愚かな、とても操り易い令嬢だった。
ウェブスター男爵家の人間は、クソ真面目で善良だったが、プリシラに常識を説かれては計画に支障が出る。
彼女が自分だけを頼るように仕向ける為にも、家族との接触を邪魔した。
初めの内は、とても上手くいっていた。
プリシラは光魔法を早期に習得し、民からの人気も絶大だった。
学園に入学すると、第二王子と親しくなった。
そこで更なる欲が出た。
プリシラが第二王子を籠絡して、同時にサディアスを失脚させられれば───。
自分の手駒であるプリシラが、この国で一番高貴な女性になるのも夢じゃない。
第二王子のクリスティアンは、王太子と比べて無能であると言われているが、教皇はそれも逆に都合が良いと考えた。
プリシラだけでなく、クリスティアンも操れるかもしれないのだから。
だが、そんな愚かな皮算用は、直ぐに破綻し始める。
プリシラもクリスティアンも、教皇が想像していた以上に非常識な人間だったからだ。
薬を用いてサディアスを嵌める作戦も、どうやら失敗したらしい。
だが、その時点でプリシラとクリスティアンの評判は底辺となっていたので、サディアスを潰すよりも、二人のイメージ回復を優先させねばならなくなった。
折角王太子位が空席になっても、手駒がその後釜に座れないのであれば、意味がない。
プリシラ達が計画した『文化祭』とやらも、少し位はイメージの回復になるかと協力したが、やはり失敗した。
だが、まだ奥の手を残してあった。
それが、フォーガス伯爵領の感染症である。
計画は一年以上前から立て始めていた。
その頃、既にプリシラの信奉者はかなり減ってきており、危機感を覚えた教皇は、なんとかプリシラに派手な活躍の場を作るべく、感染症を蔓延させる事を計画したのだ。
ウイルスはヴィクターを介して入手した。
薬師の資格を持つ彼ならば、ウイルスを扱う施設へ出入りする事が可能だ。
治療薬やワクチンは、孤児院や療養施設などの運営に必要なので、毎年購入している。
昨シーズンは、注文数を間違えた振りをして、二桁多く購入していた。
だが、ここでもやっぱりプリシラとクリスティアンの愚行に悩まされる。
「まだ到着しないのかっ!?」
「はぁ、側仕えの諫言も聞かずに、寄り道をしている様でして……」
「引っ叩いてでも言う事を聞かせるべきであろう!!」
「プリシラ嬢は兎も角、クリスティアン殿下は王子ですので……。
おそれながら、殿下の同行を認めたのが失敗だったのでは?」
「……もう良い! 出て行け!」
八つ当たりをされた神官は、これ以上難癖付けられたくなかったので、サッサと部屋を出て行った。
教皇とて、最初からクリスティアンの同行に不安は感じていた。
だが、王家が決めた事を拒否するには、それなりの覚悟が必要なのだ。
何もかも上手くいかず、苛立った教皇は朝っぱらから強い酒をグラスに注ぎ、グイッと一気に呷った。
ふと、部屋の外が騒がしくなった事に気付く。
「何事だ?」
訝しんでいると、部屋の扉がノックも無しに開かれた。
飛び込んで来たのは、微弱な魔力を持った、先程とは別の神官である。
「王宮騎士団が押し掛けて来て、猊下を探しております!」
「何だと!? まさか───」
「おそらく、そのまさかです!
土属性持ちの神官や職員が、バリケードを作りましたが、向こうには王宮魔術師もいるので直ぐに突破されるでしょう。
もう逃げるしかありません!!」
神官は早口で捲し立てながら、大きな書棚の横に這いつくばると、床板の隙間にペーパーナイフを突き刺した。
それがスイッチになったのか、書棚がゴトゴトと派手な音を立て勝手に動き出し、地下へと向かう狭くて暗い通路が現れた。
通常であれば部屋の外にも響いてしまう大きな作動音だが、神官の防音魔法のお陰で騎士達の耳には届かないだろう。
「さあ、早く!!」
教皇を通路に押し込み、ペーパーナイフを引き抜いた神官は、自分の体も素早く通路へ滑り込ませる。
三秒後、再び書棚は勝手に動き、何も無かったかの様に通路の入り口を隠した。
滅多に使わない非常用の通路は、ジメジメとして黴臭く、あちこちに蜘蛛の巣が張っていた。
魔道具のランプが所々で弱々しい光を放っており、その灯りだけを頼りに、四つん這いの姿勢でノロノロと進んだ。
頭を蜘蛛の巣だらけにしながら、漸く出口の扉を開けると、暗闇に慣れ切った目が急激な光に晒され、一瞬何も見えなくなる。
「待ち草臥れたよ」
真っ白に光る世界の中で、何者かが楽しそうに声を掛けてきた。
徐々に視力を取り戻した教皇が最初に目にしたのは、鋭い剣先を教皇の鼻先に突き付けながらニヤリと不敵に嗤うアイザックの姿だった。
非常用脱出通路の出口は、療養施設の地下倉庫だったのだ。




