第54話「食わせるのは、誰の仕事か」
その問いに答えたのは、ブレトだった。
「持っとらん」
組合長は、はっきりとそう言った。
「わしらは組合の人間だ。門の警備に呼ばれて来ただけで、食い物の話は市の管轄になる」
オズヴェクは、その答えを聞いても表情を変えなかった。
「そうですか」
彼は一礼し、それだけで引いた。食い下がらなかったのは、諦めたからではないだろう、としげるは思った。ここで押しても出てこないと判断したのだ。この男は、そういう計算を淡々とする種類の人間らしかった。
しげるは、その背中を見送りながら、何も言えなかった。
持っている。自分は持っている。作れる。今この場で、百人ぶんでも千人ぶんでも。
言わなかった理由が、サルカの制止だけでないことは、自分でも分かっていた。言えば、それが始まってしまう。 始まったものが、どこで終わるのかを、自分は何も考えていない。
◇
市政庁からしげるに使いが来たのは、その日の夕方である。
ただし、呼び出しではなかった。使いが持ってきたのは短い書付で、「明朝、市の会議にご同席いただきたい」という一文だけが書かれていた。
同席。しげるが会議に呼ばれるのは初めてだった。
◇
翌朝の市政庁は、いつもより人が多かった。
通されたのは応接室ではなく、二階の奥の広い部屋である。長卓を囲んで、市の職員が十人ほど座っていた。しげるは末席に案内された。
レグナードが議長の位置に着き、報告が始まる。
北門外の滞留者は、昨日の夕方で百三十人。今朝までにさらに四十人が到着し、合計百七十人。うち二人が夜のうちに体調を崩し、治療院へ運ばれた。
報告する職員の声は事務的だった。感情がないのではなく、感情を出さないほうが早いと知っている声だった。
「市としての方針を決めます」
レグナードが口を開いた。
「選択肢は三つです。一、規定どおり入市を認めず、退去を求める。二、条件を付けて一部を受け入れる。三、全面的に受け入れる。……順に、費用と影響を確認いたします」
◇
最初に立ったのは、四十代半ばの女だった。
髪をきっちりまとめ、地味な灰色の上着を着ている。手元の帳面はよく使い込まれていた。
「徴税を預かっております、ハウレでございます」
彼女は、しげるのほうへ短く会釈してから、卓に向き直った。
「三の全面受け入れから申し上げます。滞留者が仮に千人に達した場合、市が食料と燃料を負担すると、冬の三か月で市の年間予算の一割強を消費いたします。市の備蓄の目減りは、先日、商業組合から出た数字のとおりです」
彼女の言い方には、迷いというものがなかった。
「二の一部受け入れは、実務が破綻します。誰を入れて誰を入れないかを決める基準を作らねばならず、それを門前で判定する人手がございません。判定に不服が出れば揉め事になり、衛兵をさらに割く必要が生じます」
「では、一は」
職員の一人が訊いた。
「一の退去要求は、費用がかかりません」
ハウレは即答した。
「ただし、門外で人が死にます。死ねば埋葬を市が行うことになりますので、そこには費用が出ます」
部屋の空気が、わずかに固くなった。
誰も咎めなかった。咎めなかったのは、彼女が事実しか言っていないからである。
「ハウレ殿」
しげるが、思わず声を出した。
「あの……人が死ぬのは、費用の話なんですか」
全員の視線が集まった。
ハウレは、驚いた顔をしなかった。ゆっくりとしげるのほうへ向き直り、それから、丁寧に答えた。
「シゲル殿。この部屋は、費用の話をする場所でございます」
「…………」
「人が死ぬことをどう思うかは、私にも心がございますので、それなりに思います。ですが、私がここで申し上げるべきは、市の帳面に何がどう載るかです。……それを申し上げない徴税吏は、職務を果たしておりません」
彼女は、そこで一度だけ、言葉を選ぶような間を置いた。
「率直に申し上げます。食わせるのは、市の仕事ではありません」
「え」
「市の仕事は、市民から税を取り、その税で市民の道と水と守りを整えることです。他郡の民を養う費目は、市の予算のどこにもございません。……作れば、来年もそこに載ります。載れば、来年も来ます」
しげるは、反論を探した。
探したが、見つからなかった。この人の言っていることは、どこも間違っていない。ただ、間違っていないことと、正しいことは、たぶん違うのだろうと思った。その違いを言葉にできなかった。
◇
「王国への要請は」
レグナードが議題を進めた。
「三日前に早馬を出しております」
別の職員が答えた。
「北部三郡の郡守からも、同様の要請が出ているはずです。王都の判断が下りるまで、早くて二十日と見ております」
「二十日」
しげるが繰り返すと、その職員は少しだけ気の毒そうな顔をした。
「王都までが片道七日でございます。書状を検め、財務の確認をし、返答を作って送り返す。……二十日は、むしろ早いほうです」
二十日。
しげるは、頭の中でその数を転がした。
昨日見た荷車の上の老人は、二十日保つのだろうか。膝に子供を乗せていたあの女は。赤子を抱いていた母親は。
保つ者もいるだろう。保たない者もいるだろう。二十日という数字は、そういう数字だった。
「あの」
しげるは、椅子から立った。
立ってから、自分でも唐突だと思った。だが、座り直すのも変だった。
「俺が、出します」
部屋が静まった。
「食料です。麦でも、パンでも、豆でも、いくらでも作れます。二十日ぶんでも、三か月ぶんでも。……門の外の人たちに、今日から配れます」
言い終えると、自分の声が部屋の壁に反響しているのが分かった。
誰も、すぐには何も言わなかった。
ハウレが帳面から目を上げ、職員の何人かが顔を見合わせ、そして——
「お待ちください」
レグナードだった。
その声は、いつもの穏やかさを保っていた。保っていたが、しげるはそこに、これまで一度も聞いたことのない硬さを聞き取った。
◇
「シゲル殿。お気持ちは理解いたします」
役人は、卓の上で指を組んだ。
「ですが、それは市が判断すべきことです」
「でも、俺が出すんですよ。市のお金は要りません」
「そこが問題なのです」
レグナードは、静かに続けた。
「門の外に食料が出れば、それは配給になります。配給が始まれば、誰が誰にどれだけ配ったかを記録する者が要ります。列の整理をする者が要ります。揉め事が起きれば止める者が要ります。……その全員が、市の人間になります」
「じゃあ、その人たちの分も、俺が」
「市の職員の給金を私人が払えば、その者は市の職員ではなくなります」
ハウレが、横から短く言った。
レグナードは頷いて、続けた。
「それに、もう一つございます。……シゲル殿が食料を出されたという事実は、記録に残ります。残った記録は、来年も再来年も読まれます」
「はい」
「次に飢饉が起きたとき、北の郡守は市へ書状を出します。去年はシゲル殿が出してくださった、と書いて」
しげるは、口を開けた。
「そのとき、市はどう答えればよろしいでしょうか」
「……それは」
「シゲル殿がお出しになるかどうかは、シゲル殿がお決めになることです。市がお約束できることではありません。ですが市は、一度出たものを、次も出るものとして扱われます」
レグナードは、そこで初めてしげるの目を見た。
「ですから、お待ちくださいと申し上げております。出さないでくれと申し上げているのではありません。順序を踏んでいただきたいのです」
しげるは、立ったまま、拳を握った。
順序。
その言葉が、腹の中で妙な形に沈んだ。理屈は分かる。分かるのに、門の外にいる人たちの顔が消えない。
「……分かりました」
しげるは、そう答えて座った。
答えた自分に、その場で腹を立てた。
◇
会議は、結論を出さずに散会した。
正確には、結論は出た。「王国の返答を待つ」である。二十日待って、来なければ改めて判断する。その間、門外の滞留者には水と燃料のみを市の裁量で提供する。食料は出さない。
燃料を出す理由は、凍死者が出れば埋葬の費用がかかるから、というのがハウレの説明だった。
誰もそれを笑わなかった。
◇
その夜、しげるは灰鹿亭の部屋で、一睡もできなかった。
寝台に横になり、天井の梁を見て、それから起き上がった。棚の乳鉢と枝の輪が、暗がりの中でぼんやり形を持っている。
出せば、始まる。始まったものは、終わらない。
レグナードの言ったことは、たぶん全部本当だった。次の飢饉のときに「去年は出してくれた」と書かれる。それは自分にも想像がつく。
だが、その想像がついたところで。
しげるは、窓を開けた。
冷たい空気が入ってきた。北の空は暗く、星が出ている。あの方角の、街道の脇の吹きだまりに、いま百七十人がいる。
二十日。
しげるは窓を閉め、また寝台に戻った。
◇
夜明け前に、戸を叩く音がした。
開けると、ユハンが立っていた。治療院から走ってきたのだろう、息が上がっている。
「シゲルさん」
「どうしたんですか、こんな時間に」
「北門の外で」
少年は、そこで一度、呼吸を整えた。
整えて、それから言った。
「亡くなった方が出ました。……老人の方が一人、夜のうちに」




