第55話「二十日」
死んだのは、荷車に乗せられていた老人のうちの一人だった。
しげるが北門の外へ着いたとき、遺体はもう筵をかけられ、街道の脇へ移されていた。市の職員が二人立っていて、埋葬の手配を話している。孫らしい少年が、筵の脇に座り込んでいた。泣いてはいない。ただ、筵の端を握っていた。
オズヴェクが、しげるに気づいて頭を下げた。
「昨夜のうちに、静かに逝きました。苦しんではおりません」
「……あの、すみません」
「あんたが謝ることではない」
その言い方に、責める色は一つもなかった。
なかったが、しげるはそれを、責められるよりつらいと感じた。この半年、何度も同じ感じ方をしてきたと思った。オゼクの翁も、テルドも、ヴァレクさえ最後は責めなかった。
「燃料は届いております」
オズヴェクは続けた。
「水も。市の方が朝と夕に運んでくださいます。……おかげで火は絶やさずに済んでおります」
「食べ物は」
「昨日で、村から持ってきた分が尽きました」
男は、事実として言った。
「今日から、ありません」
◇
その日から、しげるにとっての二十日が始まった。
仕事はいつもどおりあった。薬は納めなければならない。冬の依頼も入っている。屋根の補修、井戸の囲い、雪かきの押し具。サルカの稽古も朝の一刻続いていた。
だが、どの仕事の合間にも、北門の外のことが頭にあった。
三日目に、しげるは市政庁へ行った。用件を作って行ったわけではなく、行ってから用件を探した。応対に出たゼクトが、丁寧に、そして正確に状況を説明してくれた。滞留者は二百四十人。市は水と燃料を朝夕に運んでいる。王国からの返答はまだ来ていない。
「シゲル殿。差し出がましいことを申し上げます」
書記は、書きつけを閉じてから言った。
「毎日おいでになっても、状況は変わりません。……お気持ちは分かりますが、代行官も同じことを申し上げると思います」
「……はい」
「私は記録を取る係ですので、シゲル殿が三日で三度お越しになったことも、記録には残ります。それだけは、申し添えておきます」
悪意ではなかった。この男は本当に、記録を取ることを仕事だと思っている。
しげるは礼を言って帰った。
◇
六日目に、サルカ隊で北の街道へ出た。
依頼は、北から降りてくる商隊の護衛である。荷はほとんど積んでいない隊商だが、人が動く時期は野盗も出る。往復で四日の行程だった。
街道を北へ進むと、南へ向かう人の列と何度もすれ違った。
最初の一団は、二十人ほどの家族連れだった。荷車を押していたが、車輪が雪に取られてうまく進んでいない。しげるは思わず駆け寄って、後ろから押した。荷車が動き出し、家族が礼を言った。
それだけである。
それだけで、しげるの胸は少し軽くなった。
次にすれ違った一団は、五十人ほどいた。今度は荷車もなく、全員が歩いていた。子供が三人、母親らしい女に手を引かれている。いちばん小さい子が、裸足だった。
しげるは、革の靴を作ろうとして、手を止めた。
止めたのは自分の判断ではない。フェルツが横に来ていたからである。何も言わずに、ただ隣に立った。
立たれると、手が動かなくなった。
◇
三つ目の一団と会ったのは、夕方に近い時刻だった。
道端に、母親と子供が二人でうずくまっていた。母親のほうが動けなくなっている。子供は五つか六つで、母親の袖を引いていた。
連れはいない。一団からはぐれたのだろう。
しげるは、そのとき何も考えなかった。
水を出して母親に飲ませ、パンを二つ作って子供に持たせた。母親は最初、それが何か分からないような顔をして、それから震える手でパンを受け取った。
子供が食べるのを見て、しげるは少しだけ息をついた。
その息が終わる前に、人の気配がした。
振り返ると、街道の先に、別の一団がいた。十人ほどが立ち止まって、こちらを見ている。距離は三十歩ほどだろうか。
誰も走ってはこなかった。ただ、全員がパンを見ていた。
「シゲル」
フェルツの声が、耳のすぐ横でした。
「歩け」
「え」
「振り返るな。歩け」
サルカが反対側に立ち、しげるの肘を軽く押した。
三人は、母子から離れた。しげるは一度だけ振り返ろうとして、フェルツに肩を掴まれた。
街道を二百歩ほど進んでから、ようやく手が離された。
◇
「……なんで、逃げるみたいに」
しげるが言うと、フェルツは前を向いたまま答えた。
「逃げたんだ」
「あの人たちは、何もしてません。ただ見てただけで」
「見てただけの人間が、次にどうすると思う」
弓士は、そこで初めてしげるのほうを向いた。
「頼みに来る。当たり前だ。俺なら頼む。子供がおれば必ず頼む」
「じゃあ、あげればいいじゃないですか」
「十人に配ったら、次は三十人だ」
「三十人でも作れます」
「三十人に配ったら、次は百人だ」
フェルツの声は、荒くならなかった。
「あんたは百人にも配れる。千人にも配れるんだろう。……だが、街道の途中で千人に配ったら、どうなる」
しげるは、答えられなかった。
「街道に千人が居着く」
フェルツは言った。
「宿もない、家もない、火もない場所に千人だ。あんたが毎日そこへ通えるか。通えん日は、どうなる」
「…………」
「食い物が出る場所には、人が溜まる。溜まったところが村なら村になるが、街道の途中なら、ただの死に場所になるんだ」
◇
その夜の野営は、静かだった。
商隊の人間は先に寝て、しげるたち四人だけが焚き火を囲んでいた。ユハンは今回、治療院の都合で来ていない。三人だけである。
しげるは、火を見ていた。
昼のパンを、母子が食べていた光景が消えなかった。あれは間違っていなかったはずだった。あの二人は、たぶんあのまま夜を越せなかった。
だが、三十歩先で見ていた十人は。
「シゲル」
フェルツが、火に薪を足しながら言った。
「昼のあれを、後悔しとるか」
「……分かりません」
「そうか。なら、いい」
弓士は、しばらく火を見てから続けた。
「後悔せんでいい。あの母子は生きた。それは事実だ」
「でも」
「ただな。あんたは今日、一つ覚えたほうがいい」
フェルツは、薪の位置を直した。
「止めるなら最初、やるなら全部だ」
しげるは、顔を上げた。
「途中で始めて途中でやめるのが、いちばん人が死ぬ。……今日みたいに、道端で一組だけ助けるのは、その一組にとっては全部だが、街道全体にとっては何でもない。何でもないくせに、噂だけが広がる」
「噂」
「街道で食い物を配る男がいる。そう伝わる。……伝われば、動く者が増える」
サルカが、水袋から一口飲んで、口を挟んだ。
「私は、少し違う」
「ほう」
「あの母子を見捨てて通り過ぎる男とは、私は組みたくない」
彼女はあっさりそう言った。
「だから今日のは、あれでいい。ただし、あれを毎日やるなら、腹を括れという話だ。……フェルツの言うことと、たぶん同じだぞ」
「同じだな」
フェルツが認めた。
二人の言い方はまるで違うのに、着地は同じ場所だった。
しげるは、その二つの言葉を、何度か頭の中で並べ直した。
止めるなら最初、やるなら全部。
腹を括れ。
自分は、どちらもしていない。始めてもいないし、やめてもいない。ただ、目の前に来たものだけに反応して、後ろにいる何千人のことは考えないようにしている。
考えないようにしている、という自覚が、いちばん重かった。
◇
「フェルツさん」
「なんだ」
「もし、俺が全部やるって言ったら。街の外の人、全員に、毎日食べ物を出すって言ったら」
しげるは、火を見たまま訊いた。
「フェルツさんは、賛成しますか」
弓士は、すぐには答えなかった。
薪が爆ぜて、火の粉が上がった。
「賛成も反対もせん」
やがて彼は言った。
「俺は妻子持ちの弓士だ。街に飯があって、依頼があれば食える。あんたが何を出そうが、俺の暮らしはたぶん変わらん。……変わらん人間が、賛成だの反対だのと言うのは、卑怯だと思っとる」
「…………」
「ただ、一つだけ言う」
フェルツは、しげるを見た。
「やると決めたら、俺は手伝う。運ぶくらいはできる。……決めるのは、あんただ」
サルカが、隣で鼻を鳴らした。
「私も手伝う。剣で配るのは無理だが、列の整理くらいはできる」
しげるは、二人の顔を見た。
見て、何か言おうとして、うまく言葉にならなかった。
◇
街に戻ったのは、四日後の昼だった。
北門が見えてきたとき、しげるは足を止めた。
止めたのは自分だけではない。商隊の御者も、サルカも、フェルツも、同じ場所で止まった。
門の外の斜面が、埋まっていた。
六日前は、道の脇の吹きだまりに二百人ほどが固まっていた。それが今は、斜面から街道の脇まで、目の届く範囲がすべて人になっている。
筵と板で作った風除けが並び、あちこちで細い煙が上がっていた。荷車が横倒しにされ、その陰に人が座っている。子供の泣き声が、いくつも重なって聞こえた。
「……何人ですか、これ」
誰も答えなかった。
門の脇で、市の職員が数えている。数え終わるのに、ずいぶん時間がかかっていた。
やがて、その職員が紙に書きつけた数を、通りすがりの衛兵に告げるのが聞こえた。
「九百二十七」
しげるは、その数を頭の中で置いた。
置いて、置ききれなかった。
王国の返答まで、あと十日ある。




