第53話「降りてくる人々」
北門へ向かう道すがら、ブレトは何も説明しなかった。
説明の代わりに歩く速さで示す、という種類の男である。しげるは半歩遅れてついていき、その背中を見ていた。組合長の外套の肩に、細かい雪が積もっては溶けていく。
門の手前で、サルカとフェルツが合流した。ユハンは治療院から回ってくるという。
「詰所から人を出せと言われた」
サルカが歩きながら言った。
「市の衛兵だけでは足りんそうだ。……足りんというのは、腕の話じゃないぞ。手が足りんという意味だ」
◇
北門の外に出て、しげるは足を止めた。
街道が丘を越えてくるあたり、道の脇の吹きだまりに、人の塊があった。
数はすぐには分からなかった。百人ほどだろうかと思ったが、荷物と人の区別がつきにくいので、もっと少ないかもしれないし多いかもしれない。ただ、遠目に見て最初に思ったのは、動きが少ないということだった。
人が百人集まっていれば、普通は動く。誰かが立ち、誰かが歩き、誰かが手を振る。あの塊は、ほとんど動かなかった。座っている者は座ったまま、立っている者は立ったまま、同じ姿勢で長いことそこにいるように見えた。
近づくにつれて、細部が見えてくる。
荷は少ない。背負い袋が一つか二つ、家族に一つあればいいほうで、荷車を引いている家族は一組だけだった。その荷車にも、荷ではなく人が乗っている。老人が二人、毛布にくるまって座っていた。
子供が多かった。老人も多かった。その間の年代が、明らかに少ない。
「若い者を、村に残してきとるな」
フェルツが低く言った。
「家と畑を守るためだ。動けん年寄りと子供を先に逃がして、残った者が春まで粘る。……昔からある形だ」
しげるは、その説明を聞きながら、目を離せずにいた。
誰も騒いでいない。泣いている子供もいるが、大声ではない。長く歩いてきた者に特有の、消耗した静けさが、その塊全体を覆っていた。
◇
門の前では、市の職員が三人がかりで対応していた。
衛兵が二人、その脇に立っている。職員の一人が紙を持ち、何かを説明していて、難民の側からは年配の男が一人だけ出て応じていた。
「通行の許可が出せんと言っとる」
ブレトが状況を要約した。
「規定では、他郡から入る者は身元の確認と、滞在の目処が要る。宿の当てか、引き取り手か、金か。……三つとも無い者は入れられん」
「そんな」
「規定だ。守っとる職員を責めるな」
組合長の声は硬かった。硬いのは、しげるに向けたものではないらしかった。
「わしが呼ばれたのは、揉め事にならんように立っとれという話だ。それ以上のことは、わしらの領分じゃない」
◇
しげるは、その一団のほうへ二歩ばかり寄った。
寄って、初めて顔が見えた。
いちばん近くに座っていたのは、四十くらいの女と、その膝に頭を預けた子供だった。子供は眠っているのではなく、目を開けている。開けているが、こちらを見ていない。焦点がどこにも合っていなかった。
女がしげるに気づいて、わずかに身を起こした。何か言おうとして、やめた。やめた理由は分かった。話しかけたところで、この男が門を開けられるわけではないと判断したのだろう。
その隣に、老人が座っていた。
その隣に、若い母親と赤子がいた。
その隣に、また子供がいた。
しげるは、そこまで見て、手が動いた。
考えたわけではない。作ろうと決めたわけでもない。ただ、この半年で百回以上繰り返してきた動作が、勝手に始まっただけである。手のひらの奥が温かくなり、パンの匂いが立ちかけた。
手首を掴まれた。
強い力だった。骨が軋むほどではないが、振りほどけない種類の掴み方である。
「待て」
サルカだった。
「ここで出すな」
「え」
「出すなと言った」
しげるは、掴まれた手を見て、それからサルカの顔を見た。
彼女は怒っていなかった。むしろ、いつもより表情が薄い。剣を抜く直前の顔だと、しげるは後になって思い出す。
「なんでですか。目の前に」
「百人に配れば、後ろの何百人が必ず来る」
サルカは、しげるの手首を握ったまま言った。
「今この場に百人おる。だが北にはまだ何千人おる。ここで食い物が出たという話は、三日で北の村々に届く。……そうしたら、動くつもりのなかった者まで動く。雪の中を、老人と子供を連れて」
「…………」
「途中で死ぬ。歩けん者ほど死ぬ」
しげるの手から、力が抜けた。
サルカは、それを確かめてから手を離した。
「それに、市の許可なくここで配れば、市とも揉める。門の前で私人が施しを始めた、という話になる。……そうなると、次に市が動くときに、あんたの手が使えんくなる」
彼女は、そこで一度言葉を切った。
「配るなとは言っとらん。ここで、こんな形で出すなと言っとる」
◇
「サルカさん」
「なんだ」
「……見たことが、あるんですか」
サルカは答えなかった。
答えないまま、一団のほうへ視線を戻した。
しげるは、湯の里の夜を思い出していた。北の農家の生まれで、十二の年に畑が兵に踏まれて、翌年に父が死んだと、彼女はそう言った。恨む相手が分からないとも言った。
あのとき彼女は、村を出たとしか言わなかった。
村を出て、どこへ行ったのか。どうやって食ったのか。その話は、していない。
「昔の話だ」
やがてサルカは、それだけ言った。
「あんたが気にすることじゃない」
◇
門の前の押し問答は、まだ続いていた。
市の職員は規定を繰り返し、難民側の年配の男は、そのたびに頷いてから同じ問いを重ねている。声を荒らげてはいない。むしろ丁寧すぎるほど丁寧だった。
しげるは、その男を見た。
五十代の後半だろうか。背は高くないが、姿勢がまっすぐしている。外套は古いが手入れがされていて、破れたところに当てた布の縫い目が細かい。手袋はしていない。手の甲が、赤黒く割れていた。
男は職員に一礼して、こちらへ歩いてきた。
ブレトの前で足を止め、そして頭を下げた。
「北のセルド郡、ハルダン村の長で、オズヴェクと申します」
声は掠れていたが、はっきりしていた。
「組合の方とお見受けします。門の方に話が通らんので、どなたか、話を聞いてくださる方を探しております」
「冒険者組合の組合長だ」ブレトが答えた。「市の役人ではない。許可は出せん」
「承知しております」
オズヴェクは、動じなかった。
「許可を出してくれとは申しません。ただ、伝えていただきたいのです。……我々のあとに、まだ来ます」
ブレトの眉が動いた。
「どれほどだ」
「三日のうちに、二百は来ます。その次は分かりません」
男は、街道の上のほうへ目をやった。
雪の薄くかかった丘が、灰色に霞んでいる。
「うちの村は、蓄えが尽きました。川が細って、冬麦も蒔けておりません。春に蒔く麦は残しましたが、それを食えば来年がありませんので、手はつけません。……食える口を減らすしかなくなりました」
しげるは、その言葉に引っかかった。
春に蒔く麦は残した。それを食えば来年がない。
当たり前の話だった。当たり前の話なのに、なぜか胸のどこかが小さく鳴った。理由は分からなかった。
「それで、年寄りと子供から出したと」
「はい。動ける者は、残って畑を守っております」
オズヴェクは、そこで初めて、わずかに目を伏せた。
「……逆にしたほうがよかったのかもしれません。若い者を出せば、街で働けます。年寄りを村に残せば、食う量は少ない。そう言った者もおりました」
「なぜ、そうしなかった」
「村が死にます」
男は言った。
「若い者を出した村は、二度と戻りません。畑を打つ者がおらんくなりますから。……年寄りと子供を出すのは、村を生かすためです。残酷な話です。分かっております」
◇
しげるは、口を開いた。
開いてから、何を言えばいいのか分からなかった。
サルカの言ったことは正しい。ここで出せば、後ろの何千人が動く。動けば死ぬ。市とも揉める。それは全部、理屈として理解できた。
理解できたが、目の前に人がいる。
膝に子供を乗せた女がいて、荷車に乗せられた老人がいて、赤子を抱えた母親がいる。理屈は、その全部より遠いところにあった。
「シゲル殿、と申されましたか」
オズヴェクが、しげるを見た。
ブレトが名を呼んだのを聞いていたらしい。
「はい」
「あなたは、街の方ですな」
「……はい。この街に、住んでいます」
「では、一つだけ伺います」
男は、それまでと同じ丁寧さで、しかしまっすぐに訊いた。
その目に、初めて別のものが混じった。丁寧さの下に沈めていたものが、少しだけ浮いてきたような目だった。
「あんたら、食い物を持っとるのか」
しげるは、答えられなかった。
そして、その一団の中で、いくつかの顔が、こちらを向いた。




