第52話「買えない」
翌朝、しげるは商業組合の二階へ通された。
通されたのは会議に使う部屋で、長卓に椅子が八つ並んでいる。座っているのはエディナとタルグ、それに組合の年配の職員が二人だった。しげるはその末席に座らされ、なぜ自分が呼ばれたのかも分からないまま、出された茶に口をつけた。
「本日は、うちの組合の内々の集まりです」
年配の職員が説明した。
「本来なら請負士の方をお呼びする場ではありませんが、市政庁のほうから、シゲル殿にも状況を共有しておくようにと」
市政庁。レグナードの差し金だと、しげるは察した。
あの男は、いつもこうやって前もって手を回す。何かを頼むときには、その前に必ず、相手が断りにくい形を作っておく。
◇
タルグが立ち上がり、卓の上に地図を広げた。
北の三つの郡が指で示される。しげるには地名も位置も馴染みがないが、イグゼルから北へ、街道に沿って並んでいるらしかった。
「三郡合わせて、収穫は例年の三割を下回っております」
タルグの声は、昨日より落ち着いていた。一晩眠ったのだろう。
「原因は夏の旱魃です。北は川と雨で作る土地でして、この夏は川が細り、雨がほとんど降りませんでした。……秋の刈り入れの時点で、既に足りていなかったのです」
「三割というのは」
しげるが訊くと、年配の職員が答えた。
「十人が食える畑から、三人ぶんしか穫れなかったということです」
分かりやすすぎる説明だった。
「それでも、去年の蓄えがあれば冬は越せます。一年の不作なら、どこの村も耐える備えを持っております。……ただ」
職員は言葉を切り、タルグに目をやった。
「去年は、豊作でした」
タルグが引き取った。
「豊作の翌年は、蓄えが薄くなるのです。値が下がるので、余った分を売ってしまう。売った金で農具を買ったり、借りていたものを返したりします。……それが普通の商いですし、責められる話ではありません」
しげるは、頷きながら、少しだけ引っかかった。
売ってしまう。値が下がるから。
どこかで聞いた形だと思ったが、それが何かは思い出せなかった。
「つまり、去年の豊作で蓄えを吐き出した村が、今年の干ばつに当たったということです」
タルグは地図の上を指でなぞった。
「北の三郡で、およそ二万人。うち、春まで自力で食えるのは、私の見立てで半分もおりません」
部屋が、しんとした。
二万人という数を、しげるは頭の中で持て余した。
イグゼルの人口が、市の記録で三万に少し足りないくらいだと聞いたことがある。その三分の二に近い人数が、北にいる。そのうち半分以上が、春まで食えない。
◇
「では、うちが買い付けに入れないのはなぜか」
年配の職員が話を進めた。
「タルグの報告のとおりです。売り手が売らない。……これは商いとしては異常事態です」
「異常、なんですか」
しげるが訊くと、職員は少しだけ苦笑した。
「値が上がれば、普通は売り手が出るのです。三倍で売れるとなれば、蓄えを削ってでも売る者が出ます。それが市場というものです」
「今回は出ない」
「出ません。値が五倍でも出ません。……つまり、村の者たちは、麦を金に換えても意味がないと判断しております」
しげるは意味を掴みかねた。
金は金である。麦を売って金を得れば、その金で別の場所から麦を買えばいいのではないか。
その疑問を口に出すと、タルグが首を振った。
「買える場所が、ないのです」
彼は地図の北端を指で叩いた。
「北の三郡は隣接しております。全部が同じ旱魃に当たっております。隣の郡へ買いに行っても、そこも足りていない。……そして南から運ぶには、冬の街道は雪で閉じます」
「じゃあ」
「金を持っていても、雪の中で食えるものは買えません」
タルグは指を離し、しげるを見た。
「麦を手放した者から順に飢えます。だから、誰も売らない。合理的な判断です」
◇
しばらく誰も口を開かなかった。
窓の外で、荷車の車輪が石畳を鳴らしていく音がした。
やがてエディナが、それまで開かなかった帳面を卓の上に広げた。
「イグゼルの側の数字を、お話しします」
彼女はいつもの調子に戻っていた。数字を読み上げるときの、あの早口である。
「市の備蓄が、市民三万人の四十日分。商人の手持ちを合わせて、およそ八十日分。冬は九十日ですから、少し足りません。ただ、南の農村が今年は平年並みですので、そちらから買えば冬は越せます。イグゼルの市民が飢えることは、まずありません」
「よかった」
しげるが思わずそう言うと、エディナは目だけを上げた。
「ええ。よかったです。……ここまでは」
彼女は帳面の頁をめくった。
「ここからが本題です。北から人が降りてきた場合、その人たちは、この八十日分を分け合う相手になります」
「あ」
「仮に五千人が来たとして、単純に割れば、八十日分は六十八日分に減ります。一万人なら五十七日分です。……南から買い増せばいいのですが、値は上がります。上がった値で買うのは、市の予算と、街の家々の財布です」
しげるは、卓の木目を見た。
誰も飢えないはずだった街の話が、たった今、飢えるかもしれない話に変わった。しかも、その原因になるのは、飢えて逃げてきた人たちである。
「それから、もう一つ」
エディナは、ここで少し言いにくそうにした。
「街の商人には、いま麦を売り渋る者が出ています」
「売り渋る?」
「冬の間に値が上がると読んでいるからです。実際、上がります。今日買わずに二十日待てば、同じ袋が高く売れる。……これも、責められる話ではありません。商いとして正しい判断です」
タルグが、静かに付け加えた。
「うちの組合は、それを止められません。組合は取引の場を作るところで、値を決める役所ではありませんので」
◇
しげるは、そこまで聞いて、ようやく自分の中の何かが動くのを感じた。
昨日は分からなかった。麦が買えないという話が、どこへ繋がるのかが見えなかった。
今は、繋がりが見える。
北で二万人が飢える。半分が動く。動いた先はここである。ここに来れば、この街の八十日分を分け合うことになり、値が上がり、商人は売り渋り、市の予算が削れ、そして市民が「なぜ他所の者を養うのか」と言い始める。
全部が、順番に並んでいた。
第二部でエディナが卓の上に指で引いた線と、同じ形の線である。
「あの」
しげるは、口を開いた。
「俺、麦なら作れます」
部屋の空気が、わずかに変わった。
年配の職員二人が顔を見合わせた。エディナは帳面から目を上げ、タルグはしげるの顔をまっすぐ見た。
三人とも、驚いてはいなかった。
驚いていないことのほうが、しげるには意外だった。
「……存じております」
タルグが言った。
「石も薬も作られる方が、麦を作れないはずがない。それは、うちの組合の者なら誰でも考えます」
「じゃあ」
「ですが、それは商いの話ではありません」
彼は言葉を選んでいた。
「私はここで、麦の値と量の話をしております。シゲル殿が麦を出されるなら、それは商いの外側から降ってくる話です。……私が判断できることではありません」
「市政庁の話になります」
エディナが引き取った。彼女の声は、いつもより硬かった。
「量が量です。街一つを食わせる話ですから、誰がどう配るかを決められるのは市だけです。……私たちが今日お話ししたのは、シゲルさんに何かをお願いするためではありません」
「じゃあ、なんで俺は呼ばれたんですか」
「知っておいてほしかったからです」
エディナは、はっきりと言った。
「これから、いろいろな人がシゲルさんに頼みに来ます。市も、神殿も、組合も、たぶん来ます。……そのときに、シゲルさんが何も知らないまま『やります』と答えるのが、いちばん怖いので」
しげるは、その言葉を受け止めた。
受け止めて、少しだけ息が詰まった。
あの人はまた、決めろとは言わない。数えて、見せて、そして自分は退がる。あの夜から、この人の立ち位置は一つも変わっていない。
変わっていないことが、今日は少しだけ、ありがたくなかった。
◇
会議が終わり、しげるは階段を降りた。
組合の正面には、まだ昨日の荷車が停めてあった。空になった荷台に薄く雪が積もっている。
外へ出ると、風が刺すように冷たかった。
これから何が起きるのか、しげるにはまだ想像がつかなかった。二万人という数も、五千人という数も、頭の中で像を結ばない。行列も、顔も、声も、何一つ思い浮かばなかった。
ただ、麦なら作れるという事実だけが、腹の底に沈んでいた。
◇
冒険者組合に着いたのは、昼を回ってからである。
受付でネシェルが手を挙げた。いつもの取り次ぎの顔ではなく、少し急いだ様子だった。
「シゲルさん。組合長がお呼びです。……先ほどから、二階で待っておられます」
しげるは階段を上がった。
組合長室の戸を開けると、ブレトは机に着かず、窓際に立っていた。外を見ている。
振り返った顔が、この半年で見たことのない種類の険しさを帯びていた。
「シゲル」
「はい」
「北門の詰所から報せが来た」
組合長は、窓の外へ顎をしゃくった。
「北の街道から、人が降りてきとる」




