第51話「初雪」
その年の初雪は、朝のうちに降って昼には止んだ。
しげるが窓を開けたとき、灰鹿亭の裏の物置の屋根が白くなっていた。石畳の上のものは踏まれて溶けかけていたが、日の当たらない路地の隅にはうっすらと残っている。街を歩く人の息が白い。
冬が来た、と街の誰もが同じことを言い合っていた。
◇
雪が降ると、しげるの仕事は少しだけ形を変えた。
討伐の依頼が減るのである。魔獣は冬眠するものもいれば活動が鈍るものもいて、街道の往来自体が減るから護衛の口も細くなる。代わりに増えるのが、雪と寒さにまつわる細々とした頼み事だった。
この日は朝から、中央区の三軒の家を回って屋根の補修をした。夏の雨で傷んだ板を石で置き換える。雪の重みで抜けると厄介なのだと、大工の親方が教えてくれた。石で葺けば軽くて丈夫なものができる、というのはしげるの発案ではなく、その親方が「あんたなら作れんか」と言い出したことである。
昼過ぎには、井戸の凍結を防ぐ囲いを四つ作った。冬の間だけ井戸の口を覆っておく箱のようなもので、これも頼まれて初めて存在を知った。
夕方には、雪かきの道具を三十本ほど納めた。木の柄に石の板を付けた押し具で、市の依頼である。去年までは木で作っていたが、木は雪を吸うと重くなるという。
どれも、しげるが自分で考えたものではなかった。
誰かが「こういうものが要る」と言い、しげるが「作れます」と答える。この半年、繰り返してきた形である。それが不満なわけではない。むしろ気楽でよかった。何を作るかを考えなくていいのは、しげるにとって楽な時間だった。
◇
「今年の冬は、依頼が少ないな」
組合の掲示板の前で、サルカがそう言った。
板に貼られた紙の数が、確かに秋の半分ほどしかない。残っているのも近場の駆除か、街中の雑務ばかりである。
「冬はいつもそうなんですか」
「そうだ。街道が閉じると荷が動かん。荷が動かんと護衛が要らん。魔獣も出てこん。……請負士の三割は、冬に稼ぎを落として春に取り返す」
「じゃあ、皆さんはどうするんですか」
「私は蓄えがあるからいい。フェルツは冬に猟をやる。ユハンは神殿から給金が出とる」
サルカは指を折ってから、しげるを見た。
「あんたは、まあ、心配せんでいいだろうな」
「……はい。すみません」
「なんで謝る」
しげるは笑ってごまかした。
薬の代金だけで、冬を三回は越せる。作るのに半日もかからない。それを口に出すのは、なんとなく憚られた。
「暇なら、私の稽古に付き合え」
「稽古?」
「あんた、剣を持ったことがないだろう。冬は暇だから、体を動かせ」
「いや、俺、力ないですし」
「力の話じゃない。転び方を覚えろと言っとる」
サルカによれば、請負士の死因でいちばん多いのは魔獣ではなく転倒と滑落らしかった。壁を出すのが間に合わない場面はいくらでもある、というのが彼女の言い分である。
しげるは、言われてみればそのとおりだと思った。この半年、自分が危ない目に遭わずに済んだのは、たまたま隣に強い人間が三人いたからでもある。
「……お願いします」
「よし。明日から朝の一刻だ」
◇
冬の入りの街は、それでも忙しかった。
しげるは依頼の合間に市場を歩いた。塩漬けの肉が樽で並び、干した豆と根菜が山になっている。春まで持たせる食料を、どの家も買い込む時期らしい。乾物屋の前で女房たちが値を言い合っていて、その脇を子供が走り抜けていく。
薪を積んだ荷車が何台も通った。西門の外から運ばれてくるもので、荷を押しているのは日雇いの男たちである。
しげるは、その中に見覚えのある顔を見つけて手を挙げた。西門外の集落の男で、井戸を掘ったときに世話になった一人だった。男は荷車を止めて、白い息を吐きながら笑った。
「魔術師様。井戸、凍らんように囲いをもらえんかね」
「あ、作ります。明日でいいですか」
「助かる。あそこの井戸が凍ると、みんな困るんでな」
男は礼を言って、また荷車を押していった。
トゥヴァたちは元気だろうか、と思った。今度囲いを持っていくときに、何か石の玩具でも作ってやろう。
◇
その日の夕方、しげるは薬を納めた帰りに商業組合の前を通った。
いつもは静かな建物の前が、妙に人だかりになっている。
荷車が三台、正面に着けられていた。荷を降ろしている男たちの手つきが、どこか慌ただしい。組合の職員が数人出てきて、荷台を覗き込んでは何か言い合っている。
しげるは足を止めた。
荷車の一台に、麻袋が四つしか載っていなかった。三台合わせても十に届かない。荷台の板がむき出しで、縛るための縄が余ってだらしなく垂れている。
北から帰ってきた隊商だと、しげるにも分かった。二十日ほど前に出ていったのを、この目で見送っている。あのときは荷台が空だったが、それは買い付けに行くからで、帰りは麦で満載になるはずだった。
「シゲルさん」
声をかけられて振り返ると、エディナだった。
彼女は組合の階段の上に立っていて、両手に帳面を抱えている。ただ、その帳面を開いていなかった。開かずに、荷車のほうを見ていた。
「あの荷、少なくないですか」
「少ないです」
エディナは短く答えた。声の温度が、いつもと違った。
「予定では、あの三台で四百袋を積んで戻るはずでした」
「四百」
「はい。四百です」
しげるは、荷台の麻袋を数え直した。何度数えても、十に届かなかった。
「どうしたんですか。途中で盗られたとか」
「そういう話なら、まだ分かるんです」
エディナは階段を降りてきた。
降りながら、彼女は一度だけ帳面を持ち直した。その手が、少し落ち着かない動き方をしている。
「盗られたなら、届けを出して、次を手配すればいいだけです。そうじゃないんです」
「じゃあ」
「買えなかったんです」
しげるは、その言葉の意味を掴みかねた。
買えない。金がなかったということだろうか。だが商業組合の隊商が、金を持たずに買い付けへ行くはずがない。
「値が上がりすぎたということですか」
「それもあります。でも、値の問題ではないと」
エディナは、荷車のほうへ顎を向けた。
「詳しくは、彼から聞いたほうが早いです」
荷降ろしの脇に、一人の男が立っていた。
外套が泥だらけで、髪が乱れている。二十日前に見送ったときの、糊のきいた組合の上着姿とは別人のようだった。顔色も悪い。
タルグだった。
しげるが近づくと、彼は目を上げた。目の下に濃い隈がある。
「シゲル殿」
「……お帰りなさい。あの、大変だったみたいで」
「ええ」
タルグは短く答え、そのまま少し黙った。
彼は普段、こういう間を作る男ではない。数字の話をするときは、エディナと同じ速さで喋る人間である。
「三郡を回りました」
やがて、彼は言った。
「北の穀倉のあたりです。うちが毎年買っている村を、順に回りました。……去年と同じ額を持っていって、去年と同じ相手に会って、去年と同じ話をしたんです」
「はい」
「一袋も売ってもらえませんでした」
しげるは、荷台に目をやった。
「でも、十袋くらいは」
「あれは、隣の郡の商人から譲ってもらった分です。三台ぶんの荷を積みに行って、譲ってもらってきました」
タルグは、そこで初めて表情を崩した。
笑ったのだが、うまく笑えていなかった。
「金は余っています。使い道がなくて、そっくり持って帰ってきました」
冷たい風が、荷車の間を抜けた。
組合の職員が、麻袋を担いで倉庫のほうへ運んでいく。四つ、五つ、六つ。数える必要もない数だった。
「値が三倍でも、五倍でも、売ってくれるなら買いました」
タルグは、しげるを見ずに言った。
「向こうの村長が、こう言ったんです。うちの村は、来年の春まで食う分しかない、と。……売れば、村が飢えます。だから、いくら積まれても売らんと」
「…………」
「それを、回った村の全部で言われました」
しげるは、何も言えなかった。
言葉が出なかったのは、事態の重さを理解したからではない。理解できなかったからである。麦が買えないという話が、どこへ繋がるのかが分からなかった。この街の市場には、今日も麦が積んであった。パンも売っていたし、粥も出ていた。
困っているのは、ここではない誰かのはずだった。
タルグは外套の泥を払い、それからしげるに向き直った。
「シゲル殿。一つだけ、お伝えしておきます」
「はい」
「向こうで、人が動き始めています」
「動く?」
「村を出る者が出ています。南へ、つまりこちらへ向かって」
彼は、街道のほうを見た。
北へ続く道は、雪の薄くかかった丘の向こうへ消えている。
「まだ数十人です。ですが、雪が本格的に降る前に動く者は、これから増えます。……冬に村を出るというのは、そういうことです」
しげるは、その言葉をゆっくり飲み込んだ。
冬に、村を出る。
春を待たずに出るということが何を意味するのか、農村を知らないしげるにも、なんとなく分かった。
エディナが、隣で帳面を開いた。
開いて、そのまま何も書かずに閉じた。
「シゲルさん」
「はい」
「たぶん、来ます」
彼女は言った。
「この街に」




