第50話「雨が降らない」
秋の終わりというのは、街の顔がいちばんよく変わる時期らしかった。
しげるがそれを知ったのは、この年が初めてである。日本にいた頃は、季節が変わっても会社と部屋を往復するだけで、街の顔などというものを見た覚えがない。
中央区の大通りでは、店先の品物が入れ替わっていた。夏に涼しげな麻を並べていた店が厚手の外套を吊るし、果物屋の台には干した果実と根菜が積まれている。屋根の葺き直しをする職人が増え、あちこちで槌の音がした。冬になれば街道の便が減るから、その前に済ませておくものが多いのだという。
しげるは、そうした光景の中を歩くのが好きになっていた。
依頼の行き帰りに寄り道をして、意味もなく市場を一周する。声をかけられれば立ち止まり、子供に手を振られれば振り返す。三十七年間、街というものを風景として眺めたことはあっても、自分がその中に含まれていると感じたことは一度もなかった。
いまは、含まれている。
◇
供給を元に戻して、二十日が過ぎていた。
その間に街で起きたことといえば、たいていが小さくて良いことだった。
治療院の待ち日数は一日に戻り、ロズ師が「今年の冬は越せそうだ」と口にした。冒険者組合では、若い隊が二つ、等級を上げた。西門の外の井戸は毎日使われていて、しげるが様子を見に行くと、トゥヴァが仲間を連れて集まってきた。約束どおり、二度目の訪問である。
「おじさん、こないだのすごくなかった」
「ええ、すごくなかったですか」
「もっとすごいのって言ったのに」
子供の要求水準は際限がない。しげるは笑って、地面から石の階段を生やしてみせた。三段の、上に登れるだけのものである。子供たちは順番に登り、飛び降り、また登り、そのうち誰かが押されて泣き、姉らしい子に叱られていた。
帰りがけに、トゥヴァがまた枝を差し出した。前より少しだけ形が整っている。
「これも、知らないんですか」
「知らない。作ったらこうなった」
同じ答えだった。しげるは笑って受け取り、袋ではなく胸の内側の合わせに入れて持ち帰った。
◇
その数日後、商業組合の前でエディナに呼び止められた。
彼女は今度こそ帳面を抱えていて、いつもの仕事の顔をしていた。ただ、言い出す前に一度だけ髪を耳にかけたので、しげるは何となく察した。
「決まりました」
「……何がですか?」
「訊かないでください、そのくらい」
「すみません、確認したくて」
「春です。祝言は春に」
エディナは、帳面で口元を隠すようにして言った。照れているのを隠したいらしいが、隠せていなかった。
しげるは深く頭を下げた。今度は声の大きさに気をつけた。
「おめでとうございます。本当に」
「ありがとうございます。……その、前のときは、変な感じにしてしまってすみませんでした」
「変な感じって、なんですか」
「なんでもありません」
しげるは笑い、エディナも笑った。あの日のことは、たぶんこの先も二人とも口に出さないのだろうと思った。
「祝いの品、何がいいですか。俺、たいていのものは作れますけど」
「作らないでください」
彼女は即座に言った。
「シゲルさんが作ると、たぶん、金環がいくらとかいう話になります。……普通のものを、普通に買ってきてください」
「普通のもの」
「はい。普通ので、いいです」
しげるは、その返事をしばらく噛んでいた。
この人は、たぶんいろいろなことを察している。察したうえで、何も訊かないと決めている。訊かない代わりに、こういう形でだけ線を引く。
「……分かりました。普通のを探します」
「難しいですよ、シゲルさんには」
言われてみれば、そのとおりだった。
◇
冬の入りが近づいた頃、しげるは久しぶりに預かり証の残高を確かめた。
商業組合の窓口で数字を見せられて、しばらく黙り込んだ。金環三百二十枚のうち、この五か月で使ったのは十枚にも満たない。宿代と食事代と、道具の類だけである。そこへ薬の代金が毎月入ってくるから、残高は減るどころか増え続けていた。
「使い道を、お考えになりませんか」
窓口の職員が、遠慮がちに言った。
「これだけの額を寝かせておかれるのは、もったいのうございます。家をお建てになるとか、店をお持ちになるとか」
「家、ですか」
「宿住まいの方には、よくお勧めしております」
しげるは、返事をしなかった。
家。考えたことがなかった。この街に来て四か月、灰鹿亭の三番の部屋が自分の場所だと思ってきた。棚があって、乳鉢と枝の輪が並んでいて、道具袋の底に古いワイシャツが入っている。それで足りていた。
足りていたが、金は増え続けている。
使い道がないまま増えるものを、自分は毎月受け取っている。
「……考えてみます」
窓口を出ながら、しげるはそう答えた。考えるつもりは、あまりなかった。
◇
その夜、灰鹿亭の一階は少し賑わっていた。
冬支度を終えた職人たちが飲みに来ていて、メリゼが忙しそうに皿を運んでいる。ドッドは厨房で黙々と鍋を振っていた。
しげるが隅の卓で夕食をとっていると、戸が開いてエディナが入ってきた。
仕事帰りらしく、まだ鞄を提げている。彼女は店内を見回してしげるを見つけると、向かいに腰を下ろした。
「お邪魔します。……一杯だけ」
「珍しいですね、こんな時間に」
「タルグから聞いた話を、なんとなく、話したくなって」
メリゼが果実水を運んできた。エディナはそれを一口飲んでから、帳面を鞄から出した。出したものの、開かなかった。
「北の隊商が、昨日戻ったんです」
「北?」
「穀倉のあたりです。タルグが担当なので、麦の話をいろいろ聞いてくるんですけど」
彼女は、帳面の背を指でなぞった。
「今年は、妙だそうです」
「妙、というのは」
「雨が降らないんです。夏からずっと」
しげるは、麦酒のジョッキを置いた。
言葉の意味は分かる。分かるが、どう受け止めればいいのかが分からない。雨が降らないという話を、この街の秋に聞いても、実感がまるで湧かなかった。
「今年、うちの畑は普通でしたよね」
「イグゼルの周りは、ええ。少なめでしたけど、普通の範囲です」
エディナは頷いた。
「でも北は違います。あちらは川と雨で作る土地なので。……五十年ぶりだと言っている商人もいました。私は五十年生きてないので、それが本当かどうかは分かりませんけど」
「五十年」
「はい。ただ、こういう話は毎年どこかで出るんです。今年は東が寒いとか、西で虫が出たとか。ですから、話半分に聞いています」
彼女は果実水をもう一口飲み、それから帳面を開いた。
開いたところに、数字が並んでいる。しげるにも見えるように、彼女は帳面をくるりと回した。
「ただ、これだけが気になっていて」
欄には、麦の値が月ごとに書かれていた。しげるにも読める。夏から秋にかけて、緩やかに上がっている。
「秋は麦が下がる季節です。刈り入れがありますから。……今年は、上がりました」
「上がった」
「はい。刈り入れの後で上がるのは、変です」
エディナは帳面を閉じ、鞄に戻した。
「先物というのがあるんです。来年の分を、いま先に買う約束をする商いです。それが動いています。動くときは、たいてい何かあるんです」
「何か、というのは?」
「分かりません」
彼女は首を振った。
「本当に分かりません。私は麦の担当ではないですし、タルグも今年で三年目です。……ただ、動いているという事実だけを、話しておきたかったので」
しげるは、頷いた。
頷きながら、この人はいつもこうだと思った。数えたものだけを話し、そこから先を言わない。
「ありがとうございます」
「お礼を言われるような話ではありません」
エディナは立ち上がり、鞄を掛け直した。
「ただの世間話です。忘れてください」
◇
彼女が帰ったあと、しげるは一人で残りの麦酒を飲んだ。
北で、雨が降らない。
自分に何ができるわけでもない。麦のことは何も知らないし、北へ行ったこともない。テルドがどのあたりの村の出だったかも、結局訊かないままだった。
考えても仕方がなかった。
しげるは、この四か月のことを思い返した。
薬を作り始めて、街の薬屋が消えて、崖に登る男が登らなくなり、十九の請負士が死んだ。半分に減らして、また戻した。戻したときは、初めて誰にも相談しなかった。
いま、街は豊かである。治療院の死者は記録が始まって以来もっとも少なく、請負士は死なず、西門の外には井戸がある。
オゼクの店は空き家のままで、調合師組合の炉は一つしか焚かれていない。
どちらも本当だった。
たぶん、これでよかったんだ。
しげるは、そう思った。
思ってから、その言葉を誰も保証してくれないことに気づいた。気づいたが、今日はそれ以上考えないことにした。考えたところで、明日も二百本を作るのだから。
◇
その夜、しげるは灯りを消す前に、窓を開けた。
冷たい空気が部屋に入ってきた。棚の上で、乳鉢と枝の輪が並んでいる。乳鉢は十日前に拭いたばかりで、まだ埃をかぶっていない。
しげるは窓の外を見た。
イグゼルの空には、雲が一つもなかった。星がよく見えた。北のほうの空まで、遮るものが何もない。
明日も、きっと晴れる。
そう思って、しげるは窓を閉めた。




