第49話「元に戻す」
翌朝、しげるは誰にも会わずに宿を出た。
いつもなら朝食のときにメリゼと二言三言交わし、組合へ寄って掲示板を眺めてから動く。この日はそのどちらもしなかった。相談したくなるからだった。誰かに話せば、その誰かは何かを言う。言われれば、それを理由にできてしまう。
市政庁の門をくぐったのは、七の鐘が鳴る前だった。
◇
「お約束はいただいておりませんが」
受付の職員は困った顔をしたが、しげるの名を聞くと奥へ引っ込み、しばらくして戻ってきた。
「代行官がお会いになります。少々お待ちを」
通されたのは、いつもの応接室ではなく、その手前の小部屋だった。卓が一つと椅子が二脚あるだけの、待ち合いのような部屋である。しげるは椅子に座り、膝の上で手を組んで待った。
レグナードは、四半刻ほどで現れた。
「お待たせいたしました。本日はどのような」
「薬を、元に戻します」
しげるは、椅子から立ち上がってそう言った。
立ち上がる必要はなかった。座ったままで言えばよかったのだが、体が勝手に動いた。
レグナードは、少しだけ間を置いた。
「……月に二百本、ということでよろしいですか」
「はい」
「承知いたしました。市として検討いたします」
いつもと同じ返事だった。
しげるは、その言葉に頷きかけて、思い直した。
「あの」
「はい」
「検討ではなくて」
自分の声が、思っていたより低く出た。
「戻すと、決めました。市に戻してくれと言われたからではなくて、俺が決めました。……そう、書類に書けますか」
レグナードの手が、書きつけの上で止まった。
この男が動きを止めるのを、しげるは三度目に見た。一度目は「タダでいいです」と言ったとき。二度目は「いくらでも作れます」と答えたとき。
「書けます」
役人は言った。
「第七条の申し出は、もとよりシゲル殿からのものとして記録されます。前回の減量も、書式の上ではシゲル殿の申し出です。……ですので、書き方は変わりません」
「そうなんですか」
「はい。すべて、そうなっております」
しげるは、少し面食らった。
自分が今日、初めて自分で決めたつもりでいたものは、書式の上では最初からずっと自分の申し出だったことになる。半減も、増産も、開始のときも。
紙の上のしげるは、いつも自分から言い出していた。
「……そうですか」
「ただし」
レグナードは、書きつけに何かを書き加えた。
「経緯の欄に、一行足しておきます。市の要請によるものではなく、供給者本人の判断による旨を」
「そんな欄があるんですか」
「ございません。作ります」
役人は、わずかに口の端を動かした。笑ったのかどうかは、しげるには判断がつかなかった。
◇
三日後、協議の書面ができあがった。
ゼクトが持ってきたそれは、前回とほとんど同じ形式で、第三条の数字が百から二百へ書き換えられている。違うのは末尾だった。
――本件変更は供給者シゲルの申し出により、市はこれを検討のうえ受諾する。市よりの要請は行っていない。
しげるは、その一行を三度読んだ。
署名し、写しを受け取り、道具袋に入れた。所要は四半刻もかからず、部屋を出るときにゼクトが「お疲れさまでした」と言ったのが、いつもより少しだけ丁寧に聞こえた。
◇
供給が戻ると、街は速やかに元へ戻った。
治療院の門前の列は三日で短くなり、五日目には順番待ちの札が余り始めた。ロズ師が「助かった」とだけ言い、ユハンは何も言わなかった。言わないことが返事だった。
配分の会議は、また止まった。
冒険者組合の掲示板には、上の等級の依頼が並び直した。若い請負士たちが、また上を狙い始めている。ヴァレクの姿を組合で見かけたが、しげるとは目が合わなかった。合わせようとして避けられたのか、たまたまなのかは分からない。分からないまま、しげるは会釈をして通り過ぎた。
街は豊かになった。二か月前と同じように、あるいはそれ以上に。
◇
戻らないものだけが、戻らなかった。
しげるは、それを一つずつ確かめて歩いたわけではない。ただ、依頼で街を回っていれば、嫌でも目に入った。
オゼクの店には、まだ売家の札が下がっている。買い手がつかないのは、あのあたりの通りに人の流れが減ったからだと、荷方の男が言っていた。空き店舗が三軒並ぶ通りに、新しく店を出そうという者はいない。
北からの荷は、相変わらず少なかった。門を通る荷車の数は数えたことがないが、東門の門衛が「今年は北がさっぱりだ」とこぼしているのを聞いた。
テルドとは、あれから会っていない。
◇
調合師組合の前を通りかかったのは、供給を戻して十日ほど経った日の夕方だった。
依頼の帰りで、遠回りをする理由はなかった。むしろ避けて通っていた道である。この日は荷が重く、近道を選んだ結果、あの石造りの平屋の前に出た。
煙突から、煙が一本だけ上がっていた。
戸口にカウゼンが立っていた。腕を組んで、暮れかけの空を見上げている。しげるに気づくと、驚いた顔もせずに片手を上げた。
「よう。久しぶりだな」
「……ご無沙汰しています」
「入るか?茶くらい出せる」
「いえ、あの、荷があるので」
「そうか」
親方は、それ以上勧めなかった。
しげるは荷を持ち直し、そのまま行こうとして、足が動かなかった。
「あの、カウゼンさん」
「うん」
「その節は、すみませんでした」
「なんの話だ」
「秘伝の、話です」
カウゼンは、ああ、という顔をした。
「あれか。気にせんでいい。断られるのは商売のうちだ」
あっさりしていた。あっさりしすぎていて、しげるは何と返せばいいのか分からなかった。
親方は腕を組んだまま、煙突の煙を目で追った。
「うちも、今は炉を一つしか焚いとらん。上級はもう作っとらんからな。中級と、傷薬と、あとは獣脂の類だ。……食う分にはなんとかなる」
「そうですか」
「まあ、あれだ」
カウゼンは、思い出したという口調で続けた。
「今年はな。弟子が一人も入らんかった」
しげるは、その言葉の意味を掴みかねた。
「弟子、というのは」
「うちは秋に見習いを取るんだ。毎年二人か三人な。手を挙げるのは職人の倅か、村から出てきた小僧だ。……今年は一人も来んかった」
「……なんでですか」
「親が継がせんのだろうな」
親方は、なんでもないことのように言った。
「薬を作っても食えんと分かれば、親は子に別の道を薦める。当たり前の話だ。わしが親でもそうする」
「……はい」
「まあ、そういう年もある」
カウゼンは笑って、戸口の中へ首を向けた。中から若い職人の声がして、火の加減を訊いているらしかった。
「じゃあな。荷が重かろう」
「……失礼します」
しげるは頭を下げて歩き出した。
通りを二つ曲がってから、ようやく気がついた。
いま聞いたのは、ただの世間話だったのだろうか。
弟子が一人も入らないというのは、来年も再来年もそうだということではないのか。今いる職人が年を取って、手が動かなくなったとき、あの四つの炉に火を入れる者は誰なのか。
しげるは足を止め、後ろを振り返った。
通りの奥に、細い煙が一本だけ上がっているのが見えた。
考えは、そこで止まった。
――でも、いまは俺がいる。
その一行が、頭の中にすとんと落ちた。落ちたら、それ以上は続かなかった。自分がいる限り、街の薬は足りている。今日も、明日も、来月も。それは事実だった。
しげるは荷を担ぎ直し、歩き出した。
◇
その夜、灰鹿亭の部屋に戻ってから、しげるは棚を見た。
乳鉢に、埃が薄く積もっていた。
枝の輪のほうは、枝と枝の間に埃が入り込んでいる。こちらは拭きようがなさそうだった。
しげるは布を持ってきて、乳鉢を手に取った。
外側を拭き、それから内側の凹みを拭いた。滑らかな窪みに指を這わせると、布越しでも五十年ぶんのすり減りが伝わってくる。翁の手は、ここに何万回、匙を当てたのだろうか。
拭き終えて、しげるは乳鉢を棚に戻した。
拭いたところで、使うわけではない。この器で何かを擂ることは、たぶん一生ない。
それでも、埃が積もっているのは嫌だった。
◇
寝台に横になると、天井の梁が薄暗く見えた。
この四か月で、いろいろなことがあった。
薬を作り始めて、街の薬屋が畳まれて、崖に登る男が登らなくなって、十九の請負士が死んで、そして今日、また元の量に戻した。
結局、最初と同じ場所に立っている。
量は二百本で、値段は銀環十枚で、納入日は十日と二十五日。書類の数字は何も変わっていない。
変わったものが一つだけあるとすれば、それは、今度は自分で戻したということだった。
それが何かの役に立つのかは分からない。ユハンは「決めてください」と言った。決めたところで死んだ人は戻らないし、閉まった店も開かない。
ただ、これから何かが起きたとき、自分は「言われたからやった」とは言えなくなった。
言えなくしたのは、自分だった。
しげるは目を閉じた。
街はもう抜けられないほど深く、自分を組み込んでいる。それは分かっていた。分かった上で、明日もまた二百本を作る。
その夜は、よく眠れた。
眠れたことが、後になって少しだけ悔しくなるのだが、それはまだ先の話である。




