第48話「どっちを選んでも」
葬儀から三日ほどは、街に何も起こらなかった。
起こらなかったというより、しげるにはそう見えていた。組合の掲示板には依頼が並び、治療院には人が並び、市場では冬支度の買い物が始まっている。十九の男が一人死んだところで、街というものは何も変わらずに回るらしかった。
変化に気づいたのは、四日目の朝である。
組合の一階に入ったとき、話し声がわずかに途切れた。ほんの一瞬だったから、気のせいだと思うこともできた。だが掲示板の前へ歩いていく間、視線がついてくるのが分かった。誰も敵意を向けてはいない。むしろ目が合うと会釈をする者のほうが多かった。それでも、朝の空気は先月とは違っていた。
「シゲルさん」
受付でネシェルが手招きした。声を落としている。
「あの、余計なことかもしれませんが」
「なんですか」
「若い方の中に、少し、その」
彼女は言葉を探し、結局まっすぐには言わなかった。
「……お気になさらないでください、とだけ」
気にするな、とわざわざ言われるということは、気にする材料があるという意味だった。しげるは礼を言い、精算を済ませ、それ以上は訊かなかった。
◇
昼過ぎ、依頼の帰りに南部職人街を抜けた。
オゼクの店は、まだ空き家のままだった。売家の札は雨で少し滲んでいる。軒先の鉤には何も吊るされておらず、風が通っても音がしない。
二軒隣に、小さな香草屋がある。翁が言っていた、婆さんが一人でやっているという店だった。
しげるは、なんとなく足を止めた。
店先に婆さんが座っていた。乾いた葉をザルで選り分けている。しげるが立ち止まったのに気づくと、顔を上げて、皺だらけの顔で会釈をした。
「魔術師様だね」
「あ、はい。すみません、勝手に見ていて」
「かまわんよ。うちは見るのはタダだ」
婆さんはザルを膝に置いた。
「あんた、薬を減らしたそうだね」
しげるの背中が、わずかに強張った。
「上の孫が組合に出とってな。聞いたよ」
「……はい。半分に」
「そうかね」
婆さんは、それきり何も言わなかった。
礼を言われるかもしれないと、しげるはどこかで思っていた。あるいは責められるかもしれないと。だがこの人は、どちらもしなかった。
しばらく黙ってから、婆さんはザルを持ち上げ、また葉を選り分け始めた。
「うちは、変わらんよ」
「え」
「半分になっても、変わらん。うちで上級を買う人は、もうおらんからね」
乾いた葉が、ザルの上で右と左に分かれていく。
「あんたが減らしたぶんで得をするのは、まだ店を開けとる大きいところだけだ。うちみたいなのは、もう終わったあとだからね」
しげるは、何も言えなかった。
「別に、責めとるんじゃないよ」
婆さんは笑った。歯が半分ほどなかった。
「あんたが半分にしたと聞いて、若い人がずいぶん怒っとるらしいと孫が言うから。……こっちはこっちで、どうでもよくなっとると、それだけ伝えたかったのさ」
どうでもよくなっている。
その言葉が、しげるの中で妙に長く残った。
半分に減らした理由は、まさにこの人たちのためだったはずだった。減らせば店が戻ると、はっきりそう思っていたわけではないにしても、そう願ってはいた。
その当人が、もうどうでもいいと言っている。
◇
市政庁からの使いが来たのは、その日の夕方だった。
文面はいつもどおり丁寧で、翌日の午前に来てほしいとだけ書かれている。用件は「供給量について」の一行のみだった。
◇
応接室の卓には、書きつけが三枚並べられていた。
レグナードは、しげるが座るのを待ってから、一枚目を手前へ滑らせた。
「まず、事実を申し上げます。数字ではなく、起きたことを順に並べます」
この男は、いつもそうする。数字を出せば議論になるが、事実を並べれば相手の頭の中で勝手に像が結ばれる。しげるはそれを知りつつ、止められなかった。
「治療院の待ち日数が、半減前の一日から、四日に延びております。街の外から来られる方のうち、三割ほどが薬を受け取れずに帰っております」
「……はい」
「宿の稼働が落ちました。二日待つつもりで来た方が、四日は待てないと判断して帰るためです。食堂と馬借にも同様の影響が出ております」
二枚目。
「請負士の負傷から死亡に至る例が、先月一件。夏の終わりから続いていたゼロが途切れました」
三枚目には、何も書かれていないように見えた。
よく見ると、短い覚え書きが一行だけある。レグナードはそれを裏返し、しげるには見せなかった。
「そして、市政庁への陳情が二件ございました」
「陳情?」
「一件は請負士の有志から、供給の回復を求めるもの。もう一件は」
役人は、わずかに間を置いた。
「薬師組合から、供給のさらなる削減を求めるものです」
しげるは、思わず顔を上げた。
「同じ月に、正反対の陳情が二件届きました。どちらも筋の通った文面です。どちらも、当事者としては当然の要求です」
レグナードの声には、感情の起伏がなかった。
「市としては、双方に対し、検討する旨をお答えいたしました。……検討する、というのは、行政が最も多用する言葉です。意味はご想像のとおりです」
しげるは、乾いた笑いが漏れそうになった。この男は、たまにこういう身も蓋もないことを言う。
「シゲル殿。市の希望を、あらためて申し上げます」
「……はい」
「元の量に戻していただけると、市としては助かります」
やはりそうか、と思った。思いながら、しげるは訊いた。
「戻したら、薬屋さんはどうなりますか」
「変わりません」
即答だった。
「半減の期間に回復した店は、一軒もございません。廃業した四件は戻らず、休業中の三軒も再開の届は出ておりません。……失礼を承知で申し上げれば、この二か月の半減は、どちらの側にも何ももたらしませんでした」
「…………」
「一方で、待つ人が増え、死者が一人出ました」
しげるは、卓の木目を見た。
何ももたらさなかった。
自分が四か所を回り、頭を下げ、了承を集め、自分で決めたと思ったあの決断は、どちらの皿にも何も乗せていなかったことになる。
「……あの」
「はい」
「じゃあ、俺は、どうすればよかったんですか」
訊いてから、しげるは自分に舌打ちしたくなった。
また同じことをしている。エディナに訊き、サルカに訊き、フェルツに訊いた。訊けば誰かが答えを出してくれると、いまだにどこかで思っている。
レグナードは、しばらく黙っていた。
黙ったまま、書きつけを揃え、指先で端を整えた。
「私は、行政の人間です」
やがて彼は言った。
「行政というのは、選ばなかった側の損害を記録する仕事です。何を選んでも、選ばれなかった側には必ず損が出ます。私どもは、それを帳面に書いて、来年の予算に反映させる。……そういう仕事です」
「はい」
「ですから、シゲル殿のご質問には、行政としてはお答えできません。どうすればよかったのかという問いに、答えがある種類の問題ではないからです」
役人は、そこで初めてしげるの目を見た。
「一つだけ、行政の人間としてではなく申し上げます」
「……はい」
「ご自分で決められたことについて、後から誰かに正しさを保証してもらおうとなさらないほうがよろしい。保証は、どこからも出ません」
◇
市政庁を出ると、風が冷たかった。
秋も終わりに近い。街路樹の葉はほとんど落ちていて、石畳の隅に吹き溜まっている。
しげるは、大通りをゆっくり歩いた。
どちらを選んでも、誰かが損をする。それは第二部のこの数か月で、何度も突きつけられたことだった。だが今日、もう一つのことが分かった。
どちらも選ばなかった場合にも、誰かが損をする。
半分というのは、両方を選んだつもりで、実際には何も選ばなかったということだった。だから、どちらの側にも何も届かなかった。届いたのは、待たされた人と、死んだ一人だけだ。
しげるは足を止め、空を見上げた。
あの日、白い空間で、神様は力だけをくれた。何でも創れる力を。だが何を作るべきかも、いつ止めるべきかも、教えてはくれなかった。
あのとき、そのことに気づけていたら。
――いや。
しげるは首を振った。
気づいていたところで、たぶん何も変わらなかった。あの場で「何を作ればいいか教えてください」と訊いたとして、あの老人は何と答えただろう。
自分で決めろ、としか言わなかったに違いない。
◇
その夜、灰鹿亭の卓で、しげるは三人に話した。
市政庁の話、婆さんの話、二件の正反対の陳情のこと。
サルカは腕を組んで最後まで聞き、フェルツは途中から目を閉じ、ユハンは膝の上で手を握っていた。
話し終えると、しばらく誰も口を開かなかった。
最初に言葉を出したのは、意外にもユハンだった。
「シゲルさん。僕、一つだけお願いがあります」
「なんですか」
「戻すなら、戻すと決めてください」
少年の声は、震えていなかった。
「市に言われたから戻す、じゃなくて。僕たちが望むから戻す、でもなくて。……シゲルさんが決めて、戻してください」
しげるは、その顔を見た。
十九の神官は、まっすぐこちらを見返していた。第39話の夜に泣いていた少年と、同じ目とは思えなかった。
「どうしてですか」
「そうしないと、次に何かあったとき、誰も責任を取れないからです」
ユハンは言った。
「僕は、あの日の会議で朝の二本を使うと決めました。だから、あの人が死んだことの一部は、僕の判断です。それは、僕が引き受けます。引き受けられます。決めたのが僕だからです」
卓の灯りが揺れて、少年の顔に影を落とした。
「でも、シゲルさんが誰かに言われて量を決めているうちは、誰も引き受けられません。市も、神殿も、組合も、みんな『自分は望んだだけだ』と言えてしまう。……それが、いちばん怖いです」
サルカが、低く息を吐いた。
「あんた、本当に十九か」
「よく言われます」
ユハンは、ほんの少しだけ笑った。
◇
その夜、しげるは眠る前に、棚の乳鉢と枝の輪を眺めていた。
決めてください、とあの子は言った。
自分で決めろ、と。
この四か月、誰もそう言わなかった。市政庁も、神殿も、組合も、みんな「望む」とは言ったが「決めろ」とは言わなかった。エディナだけが「決めるのは私じゃありません」と言い続けたが、それは決めろという意味ではなかった気もする。
十九の少年が、初めてはっきりそう言った。
しげるは、灯りを消した。
明日、市政庁へ行って、戻すと言おう。
言うときに、誰かに了承をもらいに行くのは、今度はやめようと思った。




