第47話「足りない」
その報せは、二日後の昼過ぎに組合へ届いた。
しげるはたまたま受付にいた。依頼の精算を待つ間、ネシェルと帳面の話をしていたところへ、埃だらけの男が転がり込んできたのだった。
「東の岩場から!ヴァレクさんの隊が戻ります!」
組合の一階が、一瞬で静かになった。
「怪我人か」
二階の階段口からブレトの声が降りてきた。転げ落ちるような足音とともに、大男が降りてくる。
「一人、担架です。腹を」
「治療院は」
「もう走らせました」
ブレトは一度だけ天井を見上げ、それから低く言った。
「間に合え」
◇
間に合わなかった。
しげるがそれを知ったのは、夕方だった。
ユハンが灰鹿亭に来て、卓の向かいに座り、何も言わずに水を一杯飲んだ。それから、ようやく口を開いた。
「亡くなりました」
「……そうですか」
「腹の傷でした。運び込まれたときには、もう」
少年は、両手を膝の上で組んでいた。
「上級薬を使えば、たぶん保ちました。傷そのものは、あの薬なら塞がる種類のものです。……でも、治療院の在庫が、今日は二本しかなくて」
しげるの喉が、乾いた。
「二本は、朝のうちに使ってました。産後の方と、屋根から落ちた職人さんです。夕方の分は、明日の会議で決めることになっていて」
「じゃあ」
「はい」
ユハンは頷いた。
「間に合わなかったのは、僕たちの判断です。朝に二本使うと決めたのは、昨日の会議です。……僕も、その会議にいました」
しげるは、何か言おうとした。
言葉が出る前に、ユハンが首を振った。
「違います。責めてほしくて言ってるんじゃないんです。事実を、順番どおりに言っているだけです」
◇
葬儀は三日後だった。
組合の裏の広場で行われる、請負士の簡素な葬儀だった。棺は組合が出し、火は街の外で焚く。参列は隊の仲間と、身寄りがあれば身内だけ。
死んだのは、十九の男だった。
ヴァレク隊に入って二年目で、去年の春に村から出てきたばかりだったという。妹が二人いて、仕送りをしていたらしい。その話を、しげるはサルカから聞いた。
葬儀の間、しげるは列の後ろのほうに立っていた。
行くべきかどうか、前の晩に迷った。自分は隊の人間ではないし、その若者と話したこともない。だが、行かないという選択のほうが、はるかに卑怯に思えた。
火が上がったのは、日が傾いてからだった。
◇
組合に戻ったとき、ヴァレクが待っていた。
三十代後半の、肩の厚い男だった。戦槌を使うと聞いている。顔は葬儀のときと同じで、泣いてもいなければ荒れてもいない。ただ、目の下だけが黒かった。
「シゲル殿」
「……はい」
「少し、いいか」
周りの請負士が、それとなく離れていった。ネシェルが受付から様子を窺っているのが、視界の端に映った。
ヴァレクは、前置きをしなかった。
「あんたが、薬を半分にしたんだってな」
「……はい」
「なんで減らした」
しげるは、口を開いた。
説明しようとした。説明できる材料は持っていた。薬屋のこと。調合師のこと。北の崖に登らなくなった男のこと。街から薬を作る者がいなくなればどうなるかということ。
だが、口から出てきたのは、まったく別の言葉だった。
「……すみません」
「謝罪はいらん」
ヴァレクの声は、大きくなかった。
「理由を訊いとる」
しげるは、息を吸った。
「街の、薬屋さんが」
「薬屋」
「はい。安い薬が出回って、店が畳まれて。それで、薬を作る人が減って、このままだと、いずれ街から作れる人がいなくなるって話で」
言いながら、自分の声がどんどん小さくなるのが分かった。
ヴァレクは、しばらく黙っていた。
それから、乾いた声で言った。
「薬屋が店を畳んだって、誰も死なねえだろうが」
しげるは、何も返せなかった。
「うちのは死んだ」
ヴァレクは続けた。
「十九だ。二年目で、まだ槍の握りも甘くて、それでも真面目にやってた。妹に仕送りしとったのも知っとる。……あれが死んだ日に、治療院には薬がなかった」
「…………」
「先月まではあった。あんたが減らしたから、なくなった」
事実だった。
順番どおりに並べれば、そのとおりだった。
しげるは、反論を持っていた。半減の理由は正当だと、頭のどこかは言っていた。エディナの帳面。オゼクの棚。テルドの荷車。全部本当のことだ。
だが、その全部が、この男の前では一つも意味を持たなかった。
この男の隊員は、死んだのだ。
「あんたは、いい人らしいな」
ヴァレクが言った。
「うちの若いのも、あんたの薬に助けられたと言っとった。去年の秋に一回、腹をやられてな。あんたが来る前だったから、そのときは三日寝込んで、それでも生きた」
男は、そこで初めて目を伏せた。
「今年は、死んだ」
しげるは、動けなかった。
「文句を言いに来たんじゃない。……いや、来たんだな。悪かった」
ヴァレクは、そう言って背を向けた。
殴られるかもしれないと、しげるは思っていた。殴られたほうがよかった。殴られれば、少なくとも何かが終わる。
だが男は殴らず、怒鳴らず、ただ背を向けて歩いていった。
その背中のほうが、はるかに重かった。
◇
その夜、灰鹿亭の隅の卓に、四人が揃った。
誰も呼んでいないのに、サルカが来て、フェルツが来て、ユハンが来た。しげるが何も言わなくても、彼らはしげるの顔を見れば分かるらしかった。
最初にサルカが口を開いた。
「ヴァレクに何か言われたか」
「はい」
「あいつは悪い奴じゃない。ただ、隊のもんを死なせたのは初めてでな」
「初めて?」
「あいつは慎重なんだ。無茶な依頼を受けん。だから十年、一人も死なせとらんかった。……今年で終わった」
しげるは、ジョッキを見た。
中身は減っていなかった。
「サルカさん」
「うん」
「俺は、間違えたんですか」
サルカは、すぐには答えなかった。
しばらく麦酒を飲み、それから、珍しく言葉を選ぶような口調で言った。
「分からん」
「…………」
「減らさなけりゃ、あの若いのは生きとった。それは確かだ。だが減らさなけりゃ、薬屋はもっと潰れとった。それも確かだろ。……私には、どっちが正しいか計れん」
「前は、計ってくれましたよね」
しげるは言った。
「オゼクさんのとき。どっちが重いかって、教えてくれました」
「あれは、片方が死んで、片方が死なん話だった」
サルカは、まっすぐしげるを見た。
「今度は、どっちも死ぬ話だ。私は計れん」
卓の上で、灯りが揺れた。
◇
フェルツが、それまで黙っていたジョッキを置いた。
「シゲル」
「はい」
「俺は前に、天秤に乗せていいのは権利のある奴だけだと言った」
弓士は、ゆっくりと続けた。
「あれは半分間違いだったな。……いや、言葉は間違ってない。ただ、順序が間違っとった」
「順序」
「あんたは、もう乗せとる。とっくに乗せとるんだ。権利があるかどうかを考える段階は、とうに過ぎとった」
しげるの手が、ジョッキの取っ手から滑った。
「薬を最初に一本、あの奥さんに渡した日から、あんたはずっと天秤の前に立っとる。今日誰に渡すか、来月何本作るか、それを決めるたびに乗せとる。決めんかった日も、決めんかったという形で乗せとる」
「……はい」
「だから、俺が言うべきだったのはこうだ」
フェルツは、しげるを見た。
「最初に決めておけと言ったんだ。……いや、俺も言わなかったな。悪かった」
男は、それだけ言って、また黙った。
◇
ユハンが、卓の木目を見たまま口を開いたのは、それからしばらく経ってからだった。
「僕、あの日の会議で、朝の二本を使うほうに手を挙げました」
少年の声は、静かだった。
「産後の方と、職人さんです。二人とも助かりました。あの判断が間違いだったとは、今も思いません」
「ユハンさん」
「でも、夕方に人が死にました」
ユハンは顔を上げた。目は乾いていた。
「僕たちは、これを何十年もやってきたんです。薬が足りないときに、誰に使うかを決める。決めたら、決めなかった相手が死ぬことがある。……治療院の古い神官は、みんなこれを知っています。ロズ師も、サドレク師も」
「…………」
「二か月半だけ、それをやらなくてよかったんです」
少年の指が、卓の縁を握った。
「あの二か月半が、いちばん、おかしかったんだと思います。あれが普通じゃなかった。今が元に戻っただけです。……それが、分かっているのに」
ユハンは、そこで言葉を切った。
「戻りたくないんです、僕は」
◇
その夜、しげるは部屋に戻ってから、瓶を並べなかった。
明日の納入分は、もう作ってある。作ることは、何も止めていない。
棚の上には、乳鉢と、枝の輪が並んでいた。
しげるは、それをしばらく見ていた。
半分に減らせば、両方に少しずつ配れると思っていた。薬屋にも、患者にも。どちらも完全には満たせないが、どちらも致命的にはならないだろうと。
真ん中に立てば、両側から責められないと思っていた。
実際には、逆だった。
両側から、責められることになった。
しげるは灯りを消し、寝台に横になった。
目を閉じても、ヴァレクの背中が消えなかった。




