第46話「西門の子供たち」
その依頼は、掲示板の隅に小さく貼られていた。
紙は上等ではなく、字も揃っていない。報酬の欄には銀環三枚と書いてあり、銀札の請負士が受けるような額ではなかった。というより、誰も受けないまま二十日以上そこに貼られていたらしく、紙の端が丸まっていた。
依頼の内容は、井戸を一つ掘ってほしい、というものだった。
「西門の外だな」
覗き込んだサルカが言った。
「あのあたりは井戸が二つしかない。片方は夏に涸れた。……住人が金を出し合って組合に持ってきたんだろうな。組合を通さんと、誰も引き受けてくれんと思ったんだ」
「三枚って、少ないですよね」
「あそこの連中には大金だぞ」
サルカは紙を指で弾いた。
「日雇いの季節働きが半分だ。冬になれば仕事が減る。それでも金を集めたなら、よほど困っとる」
しげるは紙を剥がした。
久しぶりに、自分から受けたい依頼だった。
◇
西門の外は、街の中とはまるで違う土地だった。
城壁の外側に沿って、粗末な小屋が固まっている。土壁と板と、拾ってきたらしい木を組み合わせた家々で、屋根は葺きが薄く、風が吹くたびに軋んだ。畑らしきものはあるが小さく、大半は季節ごとの日雇いで食っている者たちの集落だった。
しげるが依頼の紙を見せると、四十くらいの女が出てきて、恐縮しきった様子で頭を下げた。
「あの、銀札の方に来ていただけるなんて、思ってなくて」
「いえ、あの、掘るだけなら得意なので」
「本当にすみません。あんな安い額で」
女は何度も頭を下げ、しげるは何度も断り、結局どちらも決まりの悪いまま井戸の場所へ案内された。
◇
掘る場所は、集落のほぼ中央にあった。
しげるはまず地面に手を当てて、《真理視》を使った。土の層が視える。粘土質の層があり、その下に砂と礫の混じった層があって、水はさらに下だった。
「けっこう深いですね。……大人の背丈で、五つ分くらいか」
「そんなにですか」
「大丈夫です。掘るのは早いので」
しげるは腕をまくった。
まず地面を筒状に抜いた。石を創ってどけるのではなく、土を押し固めて壁にしながら、円を下へ下へと落としていく。掘り屑を上げる必要がないのが創製の強みだった。壁を作りながら落ちていけば、土は勝手に締まる。
半刻ほどで、底に湿りが出た。
さらに掘ると、水が滲み、やがて溜まり始めた。
しげるは筒の内側に石組みを回し、地上に低い囲いを立てた。滑車の柱を組み、桶を吊るし、縄を通す。縄は麻を思い浮かべて創った。
水を汲み上げて、最初の一杯を女に渡した。
女は両手で桶を受け取り、恐る恐る口をつけて、それから目を丸くした。
「……冷たい」
周りに集まっていた住人たちが、どっと沸いた。
誰かが空の桶を持って走ってきて、誰かがそれを止め、順番だ順番だと言い合いになり、結局は年寄りからということに落ち着いた。しげるは井戸の縁に腰かけて、その騒ぎを眺めていた。
依頼はこれで終わりだった。
終わりのはずだった。
◇
「ねえ」
袖を引かれて、しげるは振り返った。
子供が立っていた。
九つか、十くらいだろうか。痩せていて、髪は短く切りそろえられている。着ているものは何度も継ぎが当たっていて、足は裸足だった。目だけが大きかった。
「魔法、見せて」
子供は、いきなりそう言った。
挨拶も前置きもなかった。しげるが銀札かどうかも、大人かどうかも関係ないという顔だった。
「え、魔法?」
「いま井戸掘ったでしょ。あれ魔法でしょ」
「まあ、そうですけど」
「じゃあ他のもできるでしょ」
理屈になっていない。だが妙な説得力があった。
しげるが返事に迷っている間に、子供は後ろを振り返り、思い切り大声を出した。
「みんなー!魔法だってー!」
「や、あの、ちょっと」
小屋の影から、路地から、畑の向こうから、子供が湧いて出た。数えて七人。いちばん小さいのは三つか四つで、姉らしい子に手を引かれていた。
しげるは、井戸の縁に座ったまま囲まれた。
「なんかやって」
「はやく」
「できないの?」
子供というのは容赦がない。
しげるは咳払いをして、手のひらを上に向けた。
「じゃあ、水」
掌の上に、水の球が浮いた。ぷるぷると震えている。
「おおー」
「触っていい?」
「あ、触ると割れ」
言い終わる前に、いちばん小さい子が両手で叩いた。
水が弾けて、子供の顔にかかった。一瞬の沈黙のあと、その子が笑い出し、つられて全員が笑った。しげるも笑った。
◇
それから一刻ほど、しげるは子供に付き合った。
石でこまを作ると、四人が同時に手を出して喧嘩になった。仕方がないので七つ作った。次に石の笛を作ってみたら、うまく鳴らなかった。息の通り道の形を知らないからだ、と気づいて、二度目で鳴るものができた。
「犬つくって」
最初の子が言った。
「犬?」
「犬。うちの前にいたやつ。死んじゃった」
しげるは、少し黙った。
それから「やってみます」と言って、地面に手を向けた。
石の塊が持ち上がり、形になっていく。四本の足。長い胴。尖った耳。尻尾。
しげるは、そこで手を止めた。
石の犬は、そこにあった。
あるだけだった。動かないし、鳴かないし、目には光が入っていない。四本の足で立ってはいるが、それは犬の形をした石だった。
「……これ、犬じゃない」
最初の子が、はっきり言った。
「そうなんですよ」
しげるは苦笑した。
「犬は作れないんです。生きてるものは、俺、作れなくて」
「なんで」
「なんででしょうね。そういう決まりみたいで」
「ふうん」
子供は納得したのかしていないのか分からない顔をして、石の犬の頭を撫でた。
「でも、まあ、置いといていい?」
「え、いいですけど」
「うちの前に置く」
子供は仲間を三人呼んで、四人がかりで石の犬を引きずっていった。
しげるは、その様子を眺めていた。
あの神様の言葉を思い出しかけて、今日はやめておこうと思った。
◇
夕方近くになって、住人の一人が井戸端で湯を沸かし、薄い茶を配り始めた。
しげるも一杯もらった。茶葉というより葉を煮出しただけのもので、味はほとんどしなかった。だが熱くて、体には染みた。
子供たちは井戸の周りで遊んでいる。最初の子が水を汲み上げようとして滑車に届かず、年上の子に持ち上げてもらっていた。
「あの子は、トゥヴァといいます」
茶をくれた老人が言った。
「親は二年前に流行り病でな。今は隣の家の世話になっとる。……あれで九つだ」
「九つですか」
「よく喋る子でな。この集落で、あんたに一番最初に声をかけたのがあの子だったろう。あの子はいつもそうだ。誰にでも喋りかける」
老人は笑って、それから少し声を落とした。
「怖がらんのですよ、あの子は。……ここの子は、たいてい大人を怖がる。役人が来ると隠れる。取り立てが来ると隠れる。あの子だけは出てくる」
しげるは、井戸端のトゥヴァを見た。
水をこぼして年上の子に叱られ、言い返して、また笑っている。
◇
帰り支度をしていると、そのトゥヴァが走ってきた。
「おじさん」
「はい」
「これ」
差し出されたのは、木の枝を組んで作った、何かだった。
輪のようにも、星のようにも見える。麻紐で縛ってあって、あちこち曲がっている。
「なんですか、これ」
「知らない。作った」
「知らないんですか」
「作ってたらこうなった」
理屈になっていない。今日は最初から最後までそうだった。
しげるは、それを両手で受け取った。
軽かった。ほとんど重さを感じないくらいに軽い。指で持つと、枝がわずかに撓んだ。
自分は今日、井戸を一つ掘り、こまを七つと、鳴る笛と、犬の形をした石を作った。全部、半刻もかからずに作った。
そのどれよりも、この歪んだ枝の輪のほうが、作るのに時間がかかっているのだと思った。
「……ありがとうございます」
「うん」
トゥヴァは、それだけ言って走り出そうとして、途中で止まった。
振り返る。
「おじさん」
「はい」
「また来る?」
しげるは、一瞬、返事に詰まった。
詰まった理由は自分でも分からなかった。来る、と言うだけのことだった。西門はすぐそこで、依頼がなくても歩いてくればいい。
なのに、口を開くのに、少し時間がかかった。
「来ますよ」
「ほんと?」
「本当です」
「じゃあ、次はもっとすごいのやって」
子供はそう言い残して、今度こそ走っていった。
◇
街へ戻る道で、しげるは枝の輪を手のひらに載せていた。
城壁の門をくぐると、石畳が始まる。街の中は暖かい光で、店の看板が並び、人が行き交っている。城壁を一つ挟んだだけで、まるで別の場所だった。
しげるは、今日一日を思い返した。
書類に署名しなかった。数字を訊かれなかった。何本にするかを決めなくてよかった。誰かの生き死にを天秤にかけなくてよかった。
ただ、穴を掘って、水を出して、こまを作って、笑われて、茶をもらって、枝の輪をもらった。
いい一日だった。
三十七年生きて、こういう一日を、何回過ごしただろう。
その夜、しげるは灰鹿亭の部屋で、棚の隅に枝の輪を置いた。
乳鉢の隣だった。石の器と、枝の輪。並べてみると、ちぐはぐで、少しおかしかった。
しげるは寝台に入り、すぐに眠った。
次の日から、また薬を作る日々が始まる。
その次の日に何が起きるかを、彼はまだ知らなかった。




