第5話「城壁都市イグゼル」
街道は森を抜けると緩やかな丘に沿って伸びていた。
轍の跡が二本、どこまでも続いている。しげるとエディナはその轍を挟んで並んで歩いた。
「イグゼルは北部で一番大きな交易の街です。王都からだと馬車で十日ほどかかりますけど、北へ行く荷は大体あそこを通ります」
「エディナさんはそこで働いてるんですね。帳簿の」
「はい。商業組合で三年目になります」
帳簿の話になった途端エディナの声が半音上がった。
「今日の積み荷も北の塩と皮革の仕入れで、往路の護衛費を入れても利ざやが二割は出る荷だったんです。だから灰狼に食われでもしたら大損で――あ、すみません。命が助かった日にする話じゃないですね」
「いえ、面白いです」
本心だった。数字の話をする人間の早口は、業種が違っても万国共通らしい。異世界まで来て妙なところで安心してしまった。
「お仕事、好きなんですね」
「父が行商人だったので。子供の頃から荷台の上で帳面の付け方を教わりました。父は数字は嘘をつかないのが取り柄だとよく言っていて」
「いい言葉ですね」
「ただし嘘をつく人間は数字を使う、と続くんですけど」
「……深いなあ」
エディナは少し笑った。笑うと目尻が下がって年相応の顔になった。
「シゲルさんは遠くからいらしたと言ってましたけど、お仕事は何を?」
「あー……商いの、帳面みたいなことを。十五年ほど」
「まあ。同業ですね」
「規模は全然大したことないんですけど。注文を受けて、数を確認して、間違ってないかもう一回確認して……そういうのを、ずっと」
「大事な仕事です」
エディナは真顔で言った。
「数を確認しない人間が荷を動かすと人が死にます。うちの組合の古い帳簿には実際にそういう記録が残ってますから」
世辞ではなく事実として言っているのが分かる声だった。しげるは何と返していいか分からず「どうも」とだけ言った。十五年やった仕事を大事だと言われたのは初めてだった。
丘を一つ越えたところで、エディナが前方を指した。
「見えました。イグゼルです」
夕日の中に街があった。
灰色の城壁がぐるりと街を囲んでいる。壁の内側には家々の赤茶けた屋根がひしめき、その中央に一段高い塔と大きな建物の影が見えた。壁の外にも畑と小屋が広がって、街道はまっすぐ大きな門へ吸い込まれていく。
しげるは足を止めて見入ってしまった。
城壁都市。本物の。
写真でもテレビでもゲームの画面でもなく、歩いて近づける距離に、それはあった。
「初めて見る顔ですね」
「え?」
「イグゼルを初めて見る人は皆そこで足が止まるんです。地元の人間には少し自慢です」
エディナはそう言って歩みを再開した。
◇
門が近づくにつれて人が増えた。
荷馬車の列。籠を背負った農夫。杖をついた老人。日に焼けた子供が二人、荷車の脇を駆け抜けていった。誰もが当たり前に生活している。当たり前の生活の中に、会社帰りの格好の男が一人紛れ込んでいく。
門は石造りで、見上げるほど高かった。開いた扉の脇に槍を持った門衛が二人立っていて、出入りする者をゆるく検めている。
順番が来た。
「組合のエディナです。西街道で荷馬車が灰狼にやられました。積み荷の回収願いは明朝組合から出します」
「灰狼?怪我人は」
「いません。この方が助けてくださったので」
門衛の目がしげるに向いた。上から下まで見る。半袖のワイシャツと黒スラックスと革靴を見る。眉が寄った。
「……妙な身なりだな。名は」
「と、豊島しげるです」
「トヨシマシゲル?長いな。どこで切れるんだ」
「あ、すみません。トヨシマが家名で、しげるが名前です」
「家名持ちか。貴族か?」
「違います違います!全然そういうのじゃなくて、故郷では皆家名を持ってるというか……と、遠くから来たんです。かなり東の、田舎のほうから」
門衛はしばらくしげるを眺めていたが、隣のエディナを見て肩の力を抜いた。
「組合の娘の連れなら構わん。ただし街で揉め事を起こすなよ、東の田舎の家名持ち」
「はい!起こしません!」
門をくぐった。
くぐった先は音の洪水だった。
石畳の大通り。両側にひしめく店。呼び込みの声。荷車の車輪の音。焼けた肉と香辛料とかすかな家畜の匂い。吊るされた看板が夕日を受けてきしんでいる。
しげるはまた足を止めそうになった。
看板の文字が、読める。
見たこともない形の文字だった。丸と線を組み合わせたような、日本語ともアルファベットとも似ていない文字。なのに目に入った瞬間に意味が頭に流れ込んでくる。『ドレンの金物』『旅装と革具』『酒と食事 昼から』。
声だけじゃない。文字もか。
考えてみればエディナとも門衛とも最初から普通に話せていた。神様の言っていた《通響》。言葉が話せて文字が読める力。翻訳と言うより、最初から知っていたかのように分かる。これなら読み書きで困ることは一生なさそうだった。
「シゲルさん?」
「あ、すみません。つい見とれてて」
「今夜の宿は決まってるんですか」
「いえ、実は全然。着いたばかりで」
「でしたら灰鹿亭がいいです。中央区の手前で部屋が清潔で、夕食が付いて――」
エディナはそこで言葉を切って、少し改まった。
「本当は命の恩人を私の家にお招きすべきなんでしょうけど、狭い借家に父の仏壇と私だけなので、その」
「いやいやいや、宿で十分です!むしろ宿がいいです!」
「すみません。恩知らずで」
「恩とかもういいですから」
歩きながらエディナはふと、しげるの手元に目をやった。上着に包んで抱えたままの金塊のあたりを。
「ところでシゲルさん。街で当座のお金はあるんですか」
「あ、それは……多分、大丈夫です。売れそうな物なら持ってるので」
「それなら明日、組合の買い取り窓口を紹介します。妙な店で買い叩かれるといけませんから」
「助かります」
大通りが広場に出た。
中央に井戸のある広い場所で、周りを大きな建物が囲んでいる。エディナが一つずつ指した。あれが市政庁。あれが商業組合。あちらの尖塔が大神殿。
そして最後に、広場の角の建物を指した。
石造りの二階建て。入り口の上に、剣と山を組み合わせた紋の看板が掛かっている。文字が読めた。『イグゼル外域請負士組合』。
「冒険者組合です」
エディナは言った。
「シゲルさん、あれだけの魔術を使えるなら――登録しておいたほうがいいですよ」




