第4話「石壁」
獣が地を蹴った。
灰色の巨体が矢のように低く飛んだ。狙いは女性の背中だ。彼女はまだ走っている。間に合わない。誰がどう見ても間に合わない。
しげるの頭が真っ白になった。
何を作ればいい。
剣。
振ったことがない。
銃。
構造を知らない。
間に合わない。間に合わない。間に合わない。
壁。
壁だ。
次の瞬間にはもう考えるより先に両手を突き出していた。会社のビルの外壁。毎朝見上げていた灰色のコンクリート。あの厚さ。あの高さ。あの絶対に動かない感じ――
地面が爆ぜた。
女性と獣の間に灰色の壁がそそり立った。高さは人の背の倍以上。厚さは腕の長さほど。土を割って生えた一枚の巨大な石の板だった。
直後に轟音がした。
跳躍していた獣は空中で止まれない。全速力の巨体が石壁の面に正面から激突した。鈍く重い音が骨まで響いて壁がわずかに軋んだ。
それきり静かになった。
しげるは両手を突き出した姿勢のまま固まっていた。
風の音。自分の心臓の音。転がった木箱のきしむ音。
壁の向こうで何かが崩れるように倒れる音がした。
「…………」
女性が足を止めて振り返っていた。彼女も石壁を見上げたまま動かない。
しげるはこわごわと壁を回り込んだ。
獣は壁の根元に倒れていた。首が不自然な角度に曲がって黄色い目は開いたまま動かない。裂けた口から太い舌がこぼれていた。近くで見ると本当に大きい。馬というより小型のトラックだった。
死んでいる。
自分の全速力で自分の首を折ったのだ。
「俺が……やった?」
誰にともなく呟いた。
殴ってもいない。斬ってもいない。壁を一枚出しただけだ。それでもこの結果は自分が作ったものだった。手が震えているのに気づいて、しげるは慌てて両手を握り込んだ。
「あの!」
声にびくりと振り返った。
赤褐色の髪の女性が駆け寄ってきた。年の頃は二十歳を少し過ぎたくらいか。旅装は土に汚れ髪も乱れているが、怪我はないように見えた。
「お怪我は!?ないですか!?」
「え?あ、俺は何も。それよりそちらこそ」
「私は平気です。あなたが来てくださったので」
女性は乱れた息のまま頭を下げた。
「ありがとうございました。本当に……本当に、死ぬかと思いました」
「いや、あの、俺はただ壁を」
「その壁に救われました」
彼女は顔を上げて石壁を見た。それから倒れた獣を見て、小さく身震いした。
「灰狼です。それも相当な大物……。積み荷の匂いにつられたんだと思います。馬が怯えて暴走して、荷馬車ごと横転して。護衛の人たちとは、はぐれてしまって」
「護衛」
「商隊で移動していたんです。私は列の後ろにいたので」
彼女はそこで言葉を切って、あらためてしげるに向き直った。背筋を伸ばして胸に手を当てる。
「申し遅れました。エディナ・ヴァルと申します。イグゼルの商業組合で帳簿と輸送契約を扱っています」
「あ、ご丁寧に。豊島しげるです。……えっと、しげるが名前で、トヨシマが家名というか」
「シゲルさん」
エディナは頷いた。それから少し首を傾げた。
「変わった響きですね。遠くの方ですか」
「あ、はい。かなり……かなり遠くから来ました」
嘘は言っていない。
エディナはそれ以上詮索しなかった。代わりに石壁にもう一度目をやった。
「それにしても、詠唱もなしにこれほどの凝成術を……。シゲルさんは魔術師の方なんですか」
「魔術師、なんですかね。自分でもよく分かってなくて。魔法を使ったの、実は今日が初めてで」
「初めて」
エディナの目が丸くなった。
「初めてで、これを?」
「夢中だったので。間に合えって、それだけで」
エディナはしばらく黙って、石壁と獣としげるを順番に見た。何かを計算するような目だった。それから、ふっと表情をゆるめた。
「命の恩人が何者でも、恩人であることは変わりませんね」
「いや、恩人だなんて。俺、最初ちょっと足が竦んで……すぐ動けなくて。すみません」
「来てくれたじゃないですか」
エディナはあっさりと言った。
「来ない人のほうが普通です。灰狼を見て逃げなかった時点で、十分すぎます」
「はあ……どうも」
「大丈夫なのは、あなたのおかげです」
まっすぐそう言われて、しげるは返事に詰まった。
顔が熱くなるのが自分で分かった。
三十七年間、誰かにこんなふうに礼を言われたことがあっただろうか。仕事のお礼なら言われたことがある。どうも、助かりました、じゃあこの調子で来月も。そういうのじゃなく、目を見て、命に対して、ありがとうと言われたことが。
なかった。一度も。
風が草原を渡って、二人の間を抜けていった。
――異世界に来てまだ半日も経っていない。
後になって思えば、豊島しげるがこの世界で最も幸福だったのは、あるいは、この瞬間だったのかもしれない。
◇
エディナは散らばった積み荷を確かめに行き、木箱の一つから帳面を拾い上げて胸に抱えた。
「積み荷は組合のものなので後で人をよこして回収します。幸い、一番大事なものは無事でした」
「それ、なんですか」
「帳簿です」
彼女は当然のように言った。命の次に帳簿らしい。
「馬は逃げてしまいましたし、日が暮れる前に街へ戻らないと。灰狼は群れることもあるので」
「群れ?」
しげるは反射的に周囲を見回した。
「イグゼルの街はここから歩いて二刻ほどです。私は戻りますが……シゲルさんはどちらへ?」
「あ、俺も、その、街に行こうかなと。ちょうど人のいる所を探してたので」
「そうですか」
エディナは少し考えてから、ためらいがちに、しかしはっきりと言った。
「では――街までご一緒しても?」




