第3話「初魔法と、悲鳴」
草原だった。
膝の高さまである青い草が、風を受けて波打っている。空は突き抜けるように高く、遠くに濃い緑の森と、青くかすむ山並みが見えた。
日差しは強いが風は乾いて心地いい。初夏、という感じの気候だった。
「……マジか」
しげるはその場でゆっくりと一回転した。
建物がない。電線がない。道路がない。人工物が、視界のどこにもない。三十七年間の人生で、一度も見たことのない種類の景色だった。
本当に来てしまった。
異世界に。
半袖のワイシャツに黒スラックス、革靴という格好で、しげるは草原のど真ん中に立っていた。会社帰りの服装のまま異世界に立っている男は、たぶんこの世界で自分だけだろう。
「ええと……まず、確認かな」
誰もいないのに口に出して言った。仕事の癖だった。手順を口に出すと少し落ち着く。
神様は言っていた。水でもパンでも鉄でも金でも、知っているものなら創れると。
しげるは右手を前に出した。
手のひらを上に向ける。
「……水」
何も起きない。
「水、出ろ」
何も起きない。
急に恥ずかしくなって、しげるは周囲を見回した。誰もいない。草が揺れているだけだ。
詠唱が要るのか。それともイメージか。アニメではよく「イメージが大事」と言っていた。
しげるは目を閉じて、水を思い浮かべた。
コンビニで売っている五百ミリのペットボトルの水。冷蔵ケースから出したばかりの、表面に水滴のついた、あの――
手のひらがひやりとした。
目を開けると手の上にペットボトルが載っていた。
ラベルのない透明なボトル。中で水が揺れている。表面には水滴までついていた。
「うわっ」
思わず取り落としそうになって、慌てて両手で抱えた。
冷たい。重い。本物だ。
キャップを開けて恐る恐る一口飲んだ。冷たい水が喉を通っていった。うまい。ただの水なのに、笑ってしまうほどうまかった。
「出た……出たよ、おい……」
魔力を使った感覚はほとんどなかった。強いて言えば、手のひらの奥が一瞬だけ温かくなった気がする。疲労感はゼロだ。
次だ。
「パン」
今度は最初からイメージした。コンビニの棚のロールパン。六個入り、袋のやつ――と思った瞬間、袋ごと手の上に現れた。
袋を破って一個かじる。ふわふわで、ほんのり甘い。いつも食べているのと同じ味だった。異世界の草原のど真ん中でコンビニのロールパンを食べている。妙な状況だが腹は正直に落ち着いていった。
水が出る。食べ物が出る。
つまり、もう飢えない。
その事実のとんでもなさが、パンを噛むほどに染みてきた。
そして最後の確認だ。
しげるはごくりと唾を飲んで両手を前に出した。
金。
ゴールド。
テレビで見た造幣局のインゴット。あの、ずしりとした――
両手が、がくんと下がった。
「重っ……!」
鈍く光る金属の塊が、両手の上に載っていた。
レンガほどの大きさ。ずっしりと冗談みたいに重い。夕日みたいな色の光沢が、指の脂で曇るのが分かる。
しげるはその場にへたり込んだ。
金塊を膝に抱えたまま、しばらく動けなかった。
これが本物の金なら――いや、本物だろう、あの神様は力については嘘をつかないと言っていた――これ一個でいくらになる?大きさからして何キロある?一キロ千数百万として、ざっと計算しても――
十五年勤めた会社の生涯賃金より上だ。
それが今、一秒で出た。
「……人生、変わるじゃん」
声が震えた。
「本当に人生変わるじゃん、これ」
働かなくていい。満員電車に乗らなくていい。請求書を三回確認しなくていい。誰かの顔色を見て、すみませんすみませんと言いながら生きていかなくていい。
しげるは草原に寝転がって、高い空を見上げた。
視界の端で、創った金塊が鈍く光っていた。
三十七年間で一番いい日かもしれなかった。
◇
しばらく寝転がってから、しげるは現実的な問題に気がついた。
ここがどこか分からない。
水と食料は出せる。だが宿は出せない。というか、人がいない。人がいないとこの金塊も換金できない。無人島で札束を抱えているのと同じだ。
しげるは立ち上がって周囲をあらためて見渡した。
森。山。草原。川らしき光の筋。
そして――煙。
森の向こう、少し離れたところに細い煙が一本立ち上っていた。
煙突の煙か、焚き火か。どちらにしても人だ。
「よし……」
しげるは金塊を抱え直した。重い。だがこれを置いていく度胸はなかった。数歩歩いてから、ふと気づいて足を止めた。
いや、待て。また創ればいいのか。
それでも結局、金塊は抱えたままにした。目の前の一個を手放すのは理屈と関係なく怖かった。
革靴で草を踏み分けながら、煙に向かって歩く。
二十分も歩くと草原が途切れて、木立の間に踏み固められた小道が現れた。轍の跡がある。馬車が通る道だ。人の生活圏に入った、ということだろう。
道なりに歩けばそのうち誰かに――
悲鳴が聞こえたのは、そのときだった。
「――ッ!誰かッ……!」
女の人の声だった。
小道の先、木立の向こうから。
しげるの足が止まった。
行かなきゃ、と頭は思った。
思ったのに、足が動かなかった。
誰かが襲われている。たぶん、獣か、強盗か、そういう物騒な何かに。行けば自分も巻き込まれる。自分は昨日まで会社員だった。喧嘩の一つもしたことがない。刃物を向けられたことも、殴られたことすらない。
でも、俺は強いはずだ。神様がそう言った。あちらの世界で一番強いと。
でも、それを確かめたことはまだ一度もない。
水とパンと金塊しかまだ出していない。
もし神様の言葉が大げさだったら。もし戦いになって動けなかったら。もし――
誰か他の人が行ってくれないか。
自分より慣れた人が。強い人が。ちゃんとした人が。
喉の奥で心臓が鳴っていた。しげるは道の真ん中に突っ立ったまま、握った金塊の角が指に食い込むのも忘れて木立の向こうを見ていた。
十秒。
たった十秒だが確かに、しげるはそこに立ち尽くしていた。
次の悲鳴でようやく足が動いた。
「ま、待ってて!今――」
小走りに木立を抜ける。
視界が開けた。
道の脇に横倒しになった荷馬車。散らばった木箱。馬の姿はない。切れた手綱だけが地面に伸びていた。
そして荷馬車の陰から赤褐色の髪の若い女性が転がるように飛び出してきた。土に汚れた旅装で、足をもつれさせながらこちらへ走ってくる。
その背後の茂みが割れた。
灰色の獣が姿を現した。
犬に似ていた。ただし、大きさが馬ほどあった。灰色の剛毛が肩のあたりで逆立ち、裂けたような口から太い牙が覗いている。黄色い目が、逃げる女性の背中に据えられていた。
女性がしげるに気づいた。
助けを求める顔になりかけて――彼女は、しげるの後ろに誰もいないことを見て取ると叫んだ。
「逃げて!」
自分が追われながら、彼女はそう叫んだ。
獣が、地を蹴った。




