第44話「薬で助からない人」
その男が運び込まれたのは、次の納入日の午後だった。
しげるは、たまたま治療院にいた。
木箱を運び込んで、ロズ師と薬の受け渡しをしていたところに、表が騒がしくなった。
「戸板だ、通せ!」
男が三人がかりで運ばれてきた。
しげるは壁際に寄って、道を空けた。
戸板の上の男は、痩せていた。年は五十くらいか。顔が土気色で、頬がこけている。運ばれる間も、意識はあった。目を開けて、天井を見ていた。
「西の宿場の荷方だ」
付き添いの男が言った。
「三日前から血を吐いとって。街の医者に診せたら、ここへ行けと」
ロズ師が寝台の脇にしゃがんだ。
男の腹を触り、喉を診て、目を覗き込んだ。それから、ゆっくり立ち上がった。
「ユハンを呼んでくれ」
◇
ユハンが来て、両手をかざした。
淡い光が男の胸のあたりで脈打った。ユハンの眉が寄る。光が、いつもより長く続いた。
やがて、少年は手を下ろした。
汗をかいていた。
「……ロズ師」
「うむ」
「これは」
「わしも同じ見立てだ」
ロズ師は、しげるのほうを一度見た。
見てから、寝台の脇の椅子に腰を下ろした。
「腹の中に、しこりがある。大きい」
ロズ師は言った。
「胃だ。それがもう、あちこちに」
しげるは、言葉の意味を理解するのに少しかかった。
理解して、口を開いた。
「薬は」
「使ってもいい」
老神官は答えた。
「使えば、少し楽になる。血は止まるかもしれん。だが、それだけだ」
「それだけって」
「治らん」
◇
しげるは、寝台に近づいた。
男は、まだ目を開けていた。しげるを見て、少し口を動かした。
「あんたが……薬の」
声はほとんど出ていなかった。
「その、はい」
「聞いとるよ。安い薬の、な」
男は、笑おうとして、咳き込んだ。
ユハンが背中を支えた。
しげるは、その場に立ったまま、《真理視》を使った。
使うつもりはなかった。手が、勝手に動いた。
視界に、文字が流れ込んできた。
【人間/男性/五十二歳】胃部に大きな腫瘤/肝と腹膜に同質の組織が多数/失血による衰弱/体力の残存:僅少――
しげるは、続きを待った。
次が出てくると思った。いつもは出てくる。金の純度。薬の成分。石の硬さ。物の性質と、その扱い方。
何も出てこなかった。
もう一度、意識を集中した。
同じ文字が並び直しただけだった。
どこが悪いかは分かる。どれくらい悪いかも分かる。
どうすればいいかは、どこにも書いていなかった。
「……なんで」
しげるは、小さく呟いた。
自分の力は、物の性質を視る力だ。そう説明された。だから、この人の体の状態は視える。
でも、直し方は視えない。
視えるだけだ。
しげるは、ぼんやりと理解した。
自分は、この人を「読む」ことはできる。読んで、そこに何が書いてあるかを言える。
書き換えることは、できない。
◇
男は、その日は保った。
しげるの薬を一本使った。血は止まり、顔色が少し戻り、夕方には自分で水が飲めるようになった。
その様子を見て、付き添いの男が泣きそうな顔で礼を言った。
「よかった。……よかったなあ、あんた」
寝台の男は、うっすら笑った。
しげるは、その光景を見ていた。
見ながら、ロズ師の言葉を思い出していた。
少し楽になる。だが、それだけだ。
◇
夜、男の家族が来た。
女房と、息子と、その嫁だった。息子はしげるより少し若いくらいの男で、荷方の仕事着のままだった。
ユハンが、家族に説明した。
しげるは、廊下でそれを聞いていた。聞くつもりはなかったが、廊下は狭かった。
「……治すことは、できません」
ユハンの声は、静かだった。
「上級のお薬を使いました。それで痛みは軽くなります。血も止まりました。ただ、体の中のものは、薬では消えません」
女房が何か言った。低くて聞き取れなかった。
「はい。もう少し早ければ、というのは、正直、申し上げにくいのですが……この病は、早くても、あまり変わりません」
沈黙があった。
「あと、どのくらい」
息子の声だった。
「分かりません。数日かもしれませんし、ひと月かもしれません。……ただ、この薬を使い続ければ、痛みはかなり抑えられます。話もできます」
また沈黙。
「使ってやってください」
息子が言った。
「金は、なんとかします。うちの親父は、痛いのが嫌いなんです」
◇
男は、六日保った。
しげるは、その六日のうち三日、治療院に行った。
用がなくても行った。薬を届けに行き、届け終わっても帰らなかった。
男は日ごとに痩せた。だが痛がらなかった。薬が効いている間は、はっきり喋った。
三日目に、しげるは寝台の脇に座った。
男が、しげるに気づいた。
「あんた、暇なのか」
「いえ、あの」
「毎日来とるだろう」
しげるは、返事に詰まった。
「……すみません」
「なんで謝る」
男は笑った。
「わしはな、あんたの薬で、六十まで生きられんかったが、六日は喋れた」
「…………」
「息子とな、五年ぶりにまともに話した」
男は天井を見た。
「あいつが十八のときに大喧嘩してな。それきりだった。同じ宿場におるのに、口をきかんかった」
「……はい」
「昨日、謝られたよ。あの馬鹿に」
男の目尻が濡れていた。
「あんたの薬がなけりゃ、痛くて喋れんかった。……ありがとうな」
しげるは、頭を下げた。
下げたまま、しばらく上げられなかった。
◇
六日目の夜に、男は死んだ。
しげるは、その場にはいなかった。翌朝、ユハンから聞いた。
昼に、家族が治療院へ礼に来た。
しげるは、たまたま居合わせた。
女房が、しげるの手を握った。
「最後まで、手を尽くしていただいて」
しげるは、何も言えなかった。
息子が、深く頭を下げた。
「痛くないようにしてもらって。……親父も、そう言ってました」
礼を言われている。
その日、しげるは、それがいちばん辛かった。
自分は何もしていない。薬を渡しただけだ。あの人の体の中にあったものは、何一つ、どうにもできなかった。
できなかったのに、家族が頭を下げている。
◇
夕方、しげるは治療院を出た。
街の空が、赤かった。秋の日暮れは早い。
広場を横切りながら、しげるはぼんやりと歩いた。
薬は、万能じゃない。
ユハンが前に言っていた。薬は、体が治ろうとする力を助けるものだ。治ろうとする力が尽きた人には効かない。
効かないものが、この世にはある。
その当たり前が、今日、初めて骨まで届いた。
しげるは足を止めて、自分の手を見た。
この手は、水を出す。パンを出す。金塊を出す。壁も、柱も、井戸も、薬も出す。
三十七年間、何ひとつ持っていなかった男が、いま、この世のたいていのものを出せる。
でも。
しげるの口が、勝手に動いた。
「……生き物と、魂だけは創れん、か」
言ってから、しげるは足を止めた。
どこかで聞いた言葉だった。
いや、違う。聞いたのではない。言われたのだ。
白い空間だった。あの飄々とした老人が、指を一本立てて言った。
ただし、生き物と魂だけは創れん、と。
三か月ぶりに、その声を思い出した。
しげるは、そのとき自分が何と答えたかも、思い出した。
「……大丈夫です。犬とか作る予定、ないので」
自分の声だった。
あのときの自分は、笑っていた。金が無限に創れると聞いた直後で、頭の中がそれでいっぱいで、犬が創れないことなんてどうでもよかった。
しげるは、赤い空の下で、少し笑った。
笑ってから、笑えなくなった。
あのとき神様は、たぶん、大事なことを言ったのだ。
一番大事なことを、一番最初に、はっきりと。
俺は、それを聞き流した。
◇
その夜、しげるは灰鹿亭の部屋で、棚の乳鉢を見ていた。
石の器は、いつもどおり黙っていた。
薬は作れる。街の誰よりも上等なものを、半刻で二百本。
でも、あの人は死んだ。
オゼクの店は閉まった。
崖には誰も登っていない。
俺に創れないものが、思っていたより、ずっとたくさんある。
しげるは、寝台に横になった。
目を閉じると、その日運び込まれた戸板の、木の色が浮かんだ。




