第43話「止められない」
その夜、しげるは結局、一本も作れなかった。
何度も試した。瓶を並べ直した。窓を開けた。水を飲んだ。治療院の棚を思い出そうとした。あの赤金色を、あの澄み方を。
浮かぶ。頭の中には、はっきり浮かぶ。
手が、動かない。
正確には、手は動く。かざせる。指も曲がる。ただ、あの温かさが来ない。手のひらの奥の、蛇口をひねる感じが、来ない。
夜半に諦めて、寝台に横になった。
棚の上で、乳鉢が黒い塊になっていた。
眠れなかった。
◇
朝、戸を叩く音で起きた。
叩き方が、乱暴だった。
「シゲルさん!」
ユハンだった。
開けると、少年は肩で息をしていた。神官服の裾が乱れている。走ってきたのが一目で分かった。
「ユハンさん、どうし」
「薬が」
ユハンは、呼吸を整える間も惜しんで言った。
「今日の納入分、届いてないんです」
しげるの背中が、冷たくなった。
「昨日の夕方に確認したときは、まだ在庫が九本ありました。夜のうちに三本使って、今朝、二本使って、あと四本です」
「四本」
「今日の分が入る予定でした。三十本」
ユハンは、しげるの顔を見た。
責める顔ではなかった。ただ、必死な顔だった。
「何かありましたか。体調とか、材料とか」
「……いや」
「シゲルさん」
「ちょっと、その、昨日は」
言えなかった。
昨日、あの人の店が閉まって、それで手が動かなくなりました――そう言えばいい。事実だ。
だが言った瞬間、ユハンは全部を理解する。あの薬をしげるが作っていることを、ユハンはとっくに察している。察していて、訊かないでいてくれている。
「今日、運びます」
しげるは言った。
「昼までに、三十本」
「本当ですか?」
「はい」
「……よかった」
ユハンは、その場にしゃがみ込みそうになった。
「すみません、朝から。でも、今日は」
「今日、何かあるんですか」
「三人います」
少年は言った。
「昨日運び込まれた荷運びの人が一人。腹を打って、中が出血してます。それと、産気づいて三日経った奥さんが一人。あとは、七つの子が」
しげるは、聞くのをやめたかった。
「七つの子は、昨日の夜に着いたばかりで、まだ様子を見てる段階です。今日の昼に判断します。使うことになったら、残りが」
「分かりました」
しげるは、上着を掴んだ。
「今すぐ作ります」
◇
ユハンを帰らせて、部屋に戻った。
戸を閉めて、床に瓶を並べた。
三十本。並べると、床の半分が埋まった。
しげるは、その前に座った。
手をかざす。
昨日と同じだ。何も来ない。
しげるは目を閉じた。
浮かべるものを、変えた。
赤金色ではなく、治療院の寝台を浮かべた。あの六歳の子を。掛布から出ていた細い腕を。母親の、割れた手を。
――にがかった。
――ありがとう。
手のひらの奥が、熱くなった。
目を開けると、一本目の瓶が満ちていた。
しげるは、息を吐いた。
二本目。三本目。
一度動き出せば、あとは同じだった。半刻もかからない。疲れもしない。
三十本目の栓を閉めて、しげるは床に座り込んだ。
できた。
できてしまった。
◇
治療院に運んだのは、昼の鐘の前だった。
木箱を裏口に降ろすと、ロズ師が出てきて、中を見て、深く息を吐いた。
「助かった」
老神官は、それだけ言った。
「シゲル殿。今回はどうなさった。今まで一度も遅れたことがなかったのに」
「すみません。ちょっと、体調を崩して」
「そうか。……それならいい。無理をなさるな」
ロズ師は本気で心配していた。
「あんたが倒れたら、この治療院は今日から回らん」
軽い口調だった。
軽い口調だったのに、しげるの中で、その言葉が妙に長く残った。
◇
夕方、ユハンが灰鹿亭に来た。
昼に運んだ薬の礼と、報告だった。
「三人とも、使いました」
「無事ですか」
「はい。荷運びの人は明日には起きられます。奥さんも、赤ちゃんも無事です。……七つの子も、昼過ぎに使って、今は熱が下がっています」
「よかった」
しげるは、心からそう思った。
思ったあとで、胸の奥に別のものが残った。
ユハンは、卓の向かいに座って、しばらく黙っていた。
それから、言いにくそうに切り出した。
「シゲルさん。あの……訊いてもいいですか」
「はい」
「体調を崩したというのは、本当ですか」
しげるは、答えられなかった。
「すみません。詮索したいわけじゃないんです」
ユハンは首を振った。
「ただ、僕は、今朝ちょっと、怖くなったので」
「怖く」
「はい」
少年は、卓の木目を見ていた。
「在庫が四本だと分かったとき、僕、真っ先に思ったんです。シゲルさんに何かあったら、どうしようって」
「…………」
「患者さんの心配より先に、それを思いました」
ユハンの声が、少し震えた。
「神官として、最低だと思います。でも、そう思ったんです。……四本で、今日を越えられるか、明日はどうするか、いつまで保つか。頭の中がそれでいっぱいになって」
しげるは、麦酒のジョッキを握っていた。
握ったまま、動かせなかった。
「治療院は、もう、シゲルさんの薬がある前提で回ってます」
ユハンは言った。
「配分の会議はなくなりました。順番待ちの札も減らしました。中級薬の仕入れも、半分に落としてます。上級があるなら中級はそこまで要らないので」
「……はい」
「もし、来月から薬が来なくなったら」
ユハンは顔を上げた。
「僕たちは、去年より悪くなります」
しげるの手が、汗ばんだ。
「去年より?」
「はい。去年は、上級薬が高くて手に入らない前提で組んでいました。中級を多めに持って、術者の順番を厳しく管理して、村の煎じ薬とも連携して。……それを全部やめました。要らなくなったので」
やめました。要らなくなったので。
その言葉が、しげるの中で、二日前に閉まった戸と重なった。
「戻せば、いいんじゃないですか」
しげるは言った。
「中級を仕入れ直して、会議も戻して」
「戻せます」
ユハンは頷いた。
「三か月あれば、戻せると思います。仕入れの筋も、まだ切れてません。……でも」
少年は言った。
「その三か月の間に、死ぬ人が出ます」
卓の上の灯りが、じじと鳴った。
「今日の三人みたいな人が、毎日どこかに来ます。三か月なら、九十日です」
「…………」
「だから、僕は、シゲルさんに続けてほしいです」
ユハンは、はっきりと言った。
「サドレク師と同じことを言ってます。自分でも分かってます。でも、僕は治療院にいるので。目の前の人を見てるので」
しげるは、頷いた。
頷くしかなかった。
◇
ユハンが帰ったあと、しげるは一人で卓に残った。
メリゼが二杯目を持ってきた。頼んでいなかった。
しげるは、それをゆっくり飲んだ。
止められない、と思った。
今朝、それが分かった。
自分が一晩手を止めただけで、治療院の在庫は四本になった。治療院はもう自分の薬を前提に組み直されている。中級薬の仕入れは半分。会議はない。札も減った。
自分が止めれば、戻すのに三か月かかる。その間に人が死ぬ。
自分の気分で、止められるものではなくなっていた。
いつからだろう。
最初は、隊の常備の三本だった。次が月五十本。次が二百本。契約書に署名した。値段が決まり、納入日が決まった。
どこかで、線を越えたはずだった。
どこで越えたのかは、思い出せなかった。
◇
その夜、しげるは棚の乳鉢を見た。
石の器は、窓から入る月明かりの中で黙っていた。
しげるは、それを手に取った。
持ち上げて、内側の凹みに指を這わせた。滑らかだった。五十年ぶんの、滑らかさだった。
この人は、店を畳めた。
畳んでも、誰も死ななかった。息子が石工で、嫁が畑を持っていて、店賃も要らなかったから。
俺は。
しげるは、乳鉢を棚に戻した。
俺は、畳めない。
◇
翌朝、しげるは治療院へ行った。
用事はなかった。次の納入日はまだ先だ。
それでも行った。
裏口でユハンを呼び出して、しげるは訊いた。
昨日から、ずっと頭にあったことだった。
「ユハンさん」
「はい」
「俺がもし、薬を止めたら」
しげるは言った。
「……止めたら、今度は誰かが死ぬんですか」
ユハンは、すぐには答えなかった。
答えられなかった。
答えは、二人とも知っていた。




