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第42話「閉店」

 その朝、しげるは日の出前に目が覚めた。


 起きてから昼まで、何もできなかった。


 部屋を片付けた。片付けるものがなかったので、道具袋の中身を出して入れ直した。窓の外を見た。階下でメリゼが「今日は外へ行くのかい」と訊いてきたので、「はい」と答えた。それから、また部屋に戻った。


 昼を過ぎて、ようやく出た。


 途中でユハンを拾った。


 治療院の裏手で待ち合わせていた。ユハンは前の日に「僕も行っていいですか」と言い、それから「いえ、僕が行くのは、違うかもしれません」と言い、結局「行きます」と言った。


 二人は南部職人街へ向かった。


 道々、どちらもほとんど喋らなかった。


    ◇


 店の前に、荷車が停まっていた。


 オゼクの息子が、木箱を積んでいた。しげるを見て、頭を下げた。


 軒先の薬草の束は、もうなかった。


 吊るしてあった鉤だけが、風に鳴らずに並んでいた。


 しげるは、戸口をくぐった。


    ◇


 中は、空だった。


 三方の棚に、何もない。壺も、瓶も、紙包みも、引き出しの中身も。棚板だけが残って、その上に薄い日の筋が落ちていた。


 文字の書かれた小さな札だけが、いくつか残っていた。棚に貼りついたまま剥がれなかったのだろう。


 匂いだけが、まだ濃かった。


 五十年ぶんの薬草の匂いは、品物を全部運び出しても、壁と柱と床に残っていた。


「おう、来たか」


 奥から、翁が出てきた。


 布を持っていた。棚を拭いていたらしい。手も袖も埃だらけだった。


「悪いな。茶も出せん」


「いえ」


「そっちの若いのは……ああ、治療院の神官さんか」


「ユハン・エルゼクと申します」


 ユハンが深く頭を下げた。頭を下げたまま、しばらく上げなかった。


 翁は不思議そうな顔をして、それから「まあ、上げなさい」と言った。


    ◇


 翁は、拭き掃除を続けた。


 しげるは手伝おうとした。翁は「客に拭かせるか」と笑って断った。客ではないと言おうとして、しげるは口をつぐんだ。


 二人は、店の隅の木箱に腰かけた。


 翁が棚を拭く音だけが、店の中でしていた。


「シゲルさん」


「はい」


「この店はな、親父の代からでな」


 翁は、拭きながら言った。


「わしは十二で店に立った。学がないから、算盤も薬草の名も、全部ここで覚えた。……字を覚えたのは二十過ぎだ。薬の札が書けんと困るからな」


「そうなんですか」


「若い頃は嫌でな。逃げたこともある」


「逃げた?」


「十六の頃だ。港町まで行った。三日で戻ってきた」


 翁は笑った。


「腹が減ってな」


 布が棚の端まで行って、戻ってきた。


「戻ってきたら、親父が何も言わんかった。飯を食わせて、次の日から普通に店番をさせた。……それで、なんとなく、やめられんくなった」


「…………」


「五十年だ」


 翁は棚を見上げた。


 空の棚を、下から順に。


「長かったのか短かったのか、分からんな。今も分からん」


 しげるは、何も言えなかった。


 言葉が、一つも出てこなかった。


 昨日まで、五日間、ずっと考えていた。何を言えばいいのか。何なら言えるのか。


 答えは出なかった。今も出ていない。


    ◇


「あ」


 戸口で、小さな声がした。


 六つくらいの女の子が、戸の枠から顔を半分だけ出していた。翁の孫娘だ。


「じいじ、まだ?」


「もうちょっとだ」


「石段、座ってていい?」


「座ってなさい」


 子は、ぱたぱたと出ていった。


 しげるは、開いた戸口の向こうを見た。


 二段の低い石段に、子が座った。足をぶらぶらさせて、通りを見ている。


 通る人を数えているのだろう。三十まで数えて、また一から数え直す。


「あの子は、ここが好きでな」


 翁が言った。


「毎日あそこに座っとった。……新しい家は二階でな。石段がない」


 しげるの胸の奥が、鈍く痛んだ。


 石段は、創れる。


 その考えが、勝手に浮かんだ。


 石段くらい、いくらでも創れる。新しい家の前に、同じ高さの、同じ幅の、真ん中がすり減った石段を。今すぐにでも。


 浮かんで、すぐに消えた。


 あの石段は、五十年かけてすり減ったものだ。あの子が座っているのは、じいじの店の前の石段だ。


 同じ形のものを創っても、それは、ただの石段だ。


    ◇


「シゲルさん」


 翁が、布を置いた。


「奥に、ちょっと来てくれるか」


 奥の作業場は、もっと空だった。


 台の上に、道具が二つだけ残っていた。


 匙が一本と、乳鉢が一つ。


 石の乳鉢だった。しげるが最初にこの店に来た日、作業台の上に並んでいたものの一つだ。使い込まれて、内側が滑らかに凹んでいた。外側には細かい欠けが無数にある。


「これをな」


 翁は、乳鉢を両手で持ち上げた。


「持っていってくれんか」


 しげるは、目を見開いた。


「え、そんな、これ」


「息子は石工だ。乳鉢は使わん。孫娘はまだ小さい」


 翁は、乳鉢をしげるのほうへ差し出した。


「捨てるのも、なんでな」


「でも、俺は」


「あんた、作る人だろう」


 しげるの息が、止まった。


「石を作るんだろう。壁も、柱も、井戸も。……治療院の話も聞いとるよ。あんたの手はな、作る人の手だ」


 翁は、乳鉢を押しつけた。


「作る人の道具だ。あんたが持っとってくれ」


 しげるの手が、勝手に動いた。


 受け取ってしまった。


 思ったより重かった。石なのだから当たり前だ。掌に、冷たさと、ざらついた感触が伝わってきた。


 内側の凹みは、深かった。五十年、ここに薬草を入れて、擂り続けた分だけ凹んでいた。


 言え。


 しげるの喉の奥で、何かが鳴った。


 言え。今なら言える。


 この人はもう店を畳んだ。今さら知っても失うものはない。俺が言えば、この人は。


 この人は、どうなる。


 しげるは、乳鉢を持ったまま立ち尽くした。


 ――違う。


 この人がどうなるかじゃない。


 俺は、また、楽になろうとしている。


 乳鉢を受け取った手が、重い。この重さを持って帰るのが嫌だから、今ここで下ろそうとしている。この人に「あんたのせいだ」と言わせて、そうすれば持って帰らずに済むから。


 しげるは、唇を噛んだ。


 言わなかった。


「……ありがとうございます」


 声が掠れた。


「大事にします」


「そんな大層なもんじゃない。使ってくれ」


 翁は笑った。


 しげるは、その笑顔を見た。


 使わない、と思った。使えるわけがない。この乳鉢で薬をすり潰す事は、自分には一生ない。自分は半刻で二百本を創る男だ。


 でも、そう言えなかった。


「……はい」


    ◇


 外に出た。


 息子が荷を積み終えていた。荷車には、木箱が五つと、包んだ布と、古い椅子が一つ載っていた。丸椅子だった。しげるが薬草茶を飲んだときに座った、あの椅子だ。


 翁が最後に店を出て、戸を閉めた。


 閂を差す音がした。


 乾いた、短い音だった。


 翁は、閉めた戸をしばらく見ていた。


 それから、振り返った。


「さて、行くか」


 孫娘が石段から立ち上がって、翁の手を握った。


「じいじ、いくつまで数えた?」


「わしは数えとらん。お前はいくつまで数えた」


「三十まで数えて、二回」


「そうか。よう数えたな」


 二人は、荷車のほうへ歩き出した。


 しげるは、そこに立っていた。


 ユハンが隣で泣いていた。声を出さずに、口を強く結んで、涙だけ流していた。


 しげるは泣けなかった。


 泣く資格がない気がして、泣けなかった。


 荷車が動き出した。


「シゲルさん」


 翁が、荷車の脇から振り返った。


「達者でな」


 しげるは、頭を下げた。


 下げたまま、荷車の音が遠ざかるのを聞いていた。


 顔を上げたときには、細い道の角を曲がったあとだった。


    ◇


 閉まった戸の前に、しげるは立っていた。


 柱に札が二枚、下がったままだった。


 『上級薬 取扱休止』


 『売家』


 軒先の鉤には、何も吊るされていない。


 匂いだけが、戸の隙間から、まだ漏れていた。


    ◇


 その夜。


 灰鹿亭の部屋で、しげるは乳鉢を棚に置いた。


 窓際の、木の棚だ。銀札を置いたり、鍵を置いたりする場所だった。そこに乳鉢を置くと、棚が一気に狭くなった。


 しげるは、しばらくそれを見ていた。


 それから、瓶を並べた。


 今日の分の薬を作らなければならない。納入日は明日だ。二十五日。契約書にそう書いてある。あと三十本、足りない。


 空の瓶を床に並べて、手をかざした。


 いつもどおり、頭の中に赤金色を思い浮かべる。緋鈴草の花蜜。乳化した二層。あの澄み方。


 手のひらの奥が、温かく――


 ならなかった。


 しげるは、手をかざしたままだった。


 もう一度。


 思い浮かべる。成分。構造。混ざり方。治療院の棚の、あの色。


 何も起きなかった。


 瓶は空のままだった。


「……あれ」


 しげるは手を下ろした。


 握って、開いた。指は動く。感覚もある。


 試しに、水を思い浮かべた。


 手のひらに、ペットボトルが現れた。冷たい。表面に水滴がついている。


 創れる。能力は消えていない。


 もう一度、薬を思い浮かべた。


 瓶は、空のままだった。


 しげるは、床に座り込んだ。


 膝の上に手を置いて、その手を見た。


 棚の上で、乳鉢が黙っていた。

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